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災害、被災、瓦礫

またもや!!の災害

亡くなられた方々のご冥福を祈ります。そして被災された方、避難を余儀なくされている方々に、心からのお見舞いを申し上げます。さらに、酷暑の中、黙々と救援、復旧にあたられている方々、ボランティアの皆様に感謝申し上げます。

Dictionary of Disaster Medicine and Humanitarian Relief(災害医学と人道援助の辞書)の編著者で、災害医学の大家であるS. William A. Gunn先生は、「災害とは、自然現象もしくは人為的原因によって生じる人とその生活環境に及ぶ破壊的影響で、しばしば外部支援を要する、緊急の事態」と定義されています。また、自然災害救援のエキスパートである私の友人Claude de Ville博士は、自然災害の場合、地震や火山爆発の発生を防止することはできないが、耐震・免震構造を施し、火山爆発で火砕流や噴石が及ぶ区域に住まないことで、被災(人とその生活環境が被る破壊力の影響)は小さく出来ると述べています。

1923(大正12)年9月1日に発生したマグニチュード7.9の関東大震災で、東京ほか関東一円が被災し、木造家屋が多かったこと、昼食準備時であったことから、各所で火災が発生し、21万戸以上が焼失しました。死者行方不明者が10万5千人にのぼったほか、現在とは異なり、正確な情報がない上、デマが広がり、いくつかの社会不安を惹起しています。1960(昭和35)年以降、この日を防災の日として、全国各地で訓練が行われます。

世界各地を見るまでもなく、わが国でも、毎年、大小さまざまな災害が発生します。防災訓練や耐震免震装置などの予防措置と、DMAT(ディーマット:Disaster Medical Assistance Team/災害派遣医療チーム。医師、看護師、その他の医療職と事務職員で構成。大規模災害や多傷病者発生事故などの現場に、通常48時間以内に到着活動できる機動性を持つ専門的チーム)やDHEAT(ディーヒート:Disaster Health Emergency Assistance Team/災害時健康危機管理支援チーム。保健所職員、公衆衛生医、保健師、管理栄養士、衛生課職員などで構成。大規模災害発生時、速に被災地入りし、被災者の飲料水や食料、生活環境の衛生状態、感染症発生などを把握、被災地で必要な人的物的支援や供給体制を確保する公衆衛生チーム。DMATが治療的であるに対しこちらは公衆衛生的活動を対象)の仕組みもありますが、毎年・・・残念ながら、犠牲者が出ます。

先週末、被災地のひとつ岡山に参りました。色々な情報や各地状況は、たくさん報道されていますが、被災地の在宅看護がどうなっているのかを知るためです。日本財団在宅看護センター起業家育成事業の一期生で、「岡山在宅看護センター晴」を開業している赤瀬佳代氏を頼りに、現地関係者のお話をうかがいました。【同じく被災地広島は、現在進行中の「2018年度日本財団在宅看護センター起業家育成事業」の研修生お二人の郷里(お一人の自宅は一階が泥流流入で壊滅!!)であり調査をお願いし、また、四国は開業済仲間に情報収集をお願いしました。】

在宅療養者は、看護師らが訪問しなければケアが止まります。岡山では、県内150在宅/訪問看護センターの中、被災されたのは3事務所、既に関係医師や仲間の自宅を借りて、訪問を再開して下さっていました。が、事務所も自宅も被災、移動手段も看護活動資材も流失し、酷暑の中・・・何時まで、緊急体制を続けるのか、精神論では解決しないと思いました。各地の情報を集積し、何らかの支援につなげたいと思っています。

そのような被災地で思い出すことがあります。「がれきの山・・・」です。

がれきは瓦・礫、つまりカワラと小石あるいは取るに足りない、つまらないもの・・・です。今回も、各被災地では、家具やほんの数日まで使われていた、あるいは飾られていたはずの様々な道具、飾り、寝具や衣類が水に濡れ、泥にまみれて運ばれ、山積みされています。

先年の東北大震災の際に訪れた宮城県、岩手県でも、愛用品だったらしいスポーツ道具、衣類、自転車そしてご家族の写真などが土に埋もれていました。当時の職場だった日本赤十字九州国際看護大学の教員が、ふと申しました。「これを瓦礫と云うのはつらい・・・ほんの昨日まで、使っていたのに・・・」と。その若い看護教員は、こうも申しました。「外国の災害地で瓦礫といっても何も思わなかったのに、日本で、馴染みあるものを目の前にした時にだけ、イラっとするのは、私の偏見でしょうね・・・」とも。

同大学は、2005年から、未曽有の洪水災害といわれたインドネシアのバンダアチェの4つの看護専門学校への災害看護教育導入をお手伝いしましたが、その際、多数教員が現地に参りました。彼の地では「がれき」でしたが、日本では「思い出の品」・・・

たかが瓦礫、されどガレキ、です。私自身、2011年4月末、初めて宮城県南三陸町の、跡形もなく流れ去った町役場の後のシンボリックな防災センターの前で、泥の中からご家族の写真を拾った時、とても瓦礫とは思えず、2011年8月、学生ら80名とボランティアした海辺の、元住宅地で聞いた、この教員の言葉に深く、深くうなずくばかりでした。

今回の西日本豪雨禍の被災地の一日も早い復旧を祈ります。