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殉教者シマ・サマール

アフガニスタン独立人権委員会委員長シマ・サマ―ルが、国際シンポジム「WAW! Tokyo 2014」関連の「女性が輝く“未来”へ 男女300人のトークセッションin福岡」
で福岡を訪問するとの知らせで、昨年3月まで住んでいた博多にまいりました。
今年の福岡/博多は、NHKの大河ドラマ黒田官兵衛で盛り上がっていますが、黒田武士や、この地の夏の一大行事、770年も続いている博多祇園山笠では、男性諸氏がそれぞれ地域特有の格好良い法被で街を闊歩するなど、男性イメージが強くあります。が、実際住んでみると、以前から、とても女性の地域活動が盛んなところ、しかも、決してエンパワーメント儀式でなく、実際に、都市部でも農村部でも、多彩な女性による地域と密着した多様な活動が根付いています。
その福岡へ、世界の人権とジェンダーの旗手のようなシマ・サマ―ルがやってきました。思えば、彼女とのめぐりあいは1989年夏、四半世紀前になります。
当時、アフガニスタンは、10年にわたる旧ソビエト軍が撤退した直後、同国では多数のゲリラ紛争が激しく、一方、300万とも数えられていた同国難民の大多数は、まだ、パキスタンに滞留したままでした。難民の街ペシャワールに開設されたUNICEFアフガン支援事務所保健部長だった私は、もうひとつの難民の街クウェッタでもプロジェクトが必要と判断し、急遽、現地入りしました。風の噂的に、アフガン難民の女性ドクターが開いた女性と子どものためのNGOがあると判っていたので、迷うことなく、そちらに向かいました。振り返れば、当時、まだ30歳過ぎだったシマ・サマ―ルが、20歳近くも年上の私以上の年配にも見えました。
「Shuhada Clinicシュハダ・クリニック」には、沢山の子ども、疲れた表情の母親がいっぱいでした。クウェッタでのUNICEFの女性と子ども援助は、こうして始まりました。10年後、今度はWHO本部スタッフとして、タリバン政権下のアフガニスタン担当の折には、祖国にも拠点をもっていたシマ・サマ―ルとの関係が続きました。
今は、年齢相応、そして穏やかだけれども、何とも表現できない深い表情のシマ・サマールとは、10年ぶりの再会、私の好物、アフガン名産ピスタチオをどっさり持ってきてくれました。
この方の経歴は、英文Wikipediaにありますが、壮絶ななどと簡単に書いてはいけない人生を過ごされたのでしょう。1980年代、旧ソビエト軍が祖国を蹂躙した頃、厳しい迫害を受け、ご家族を失われています。そしてそれが故に、自由、平等、公正の、真の意味を具現化されようとしてこられたのでしょう。私が最初に訪問したNGOの名前“Shuhada”とは殉教者を意味します。その意味を教えて貰った時、私は、彼女の顔を正視できませんでした。何とナイーブなことだったか、と今は反省しますが。
しかし、その後、新たなご家族を得られ、迎えられた養女のお名前は、“Tamana”、それは希望を意味するのです。
博多の一夕、400名近い、男女共同参画を語るために集まった老若男女の前で、シマ・サマールは、何時のものように、誰もが何時でも、しっかり心に留め置くべき、人類の永遠の課題、そして真理を語ってくれました。
アフガン女性を越えて、そしてアフガニスタンという国を越えて、普遍性と永遠性をもった人類の幸せのための殉教者、素敵な初老(失礼ながら)女性になったシマ・サマールとの嬉しい再会でした。
その昔、この方について記載した文がインターネットの残っているのを発見しました。ご高覧下さい。
「アフガンの希望(2)―「殉教者」とその娘 シマ・サマールとの再会」

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