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富士山

久し振りに、午後早い時間帯に名古屋から東京に向かう新幹線に乗りました。しばらく雪・雪・雪の日本列島は、天候も曇りがちでしたが、絵に描いたように美しい富士山(写真3)でした。

日本財団笹川陽平会長の2018年1月10日ブログ「元旦の富士山と家族」では、別荘から雪を戴かない・・・たしかに、変な表現ですが、雪が無いがために却って寒々しい・・富士山の写真とともに、天変地変の前触れでないようにとのお言葉がありました。

先日、ロンドンからの帰国時、日本海から羽田を目指す飛行機からの富士山(写真1、2)には、雪があって、アア良かったなどと思ったのですが、本日は、真っ青の空を背景に、本当に凛として聳えている日本一の富士山を見ることが出来ました。いくら見ても見飽きない美しい山です。

富士川に差し掛かる頃、何だか、周囲がちょっとざわついた感じ・・、読んでいた本から目をあげると、何人かが写真を撮ろうとなさっていました。オオそうだ、富士山だ!と、私も慌てて携帯を取り出した次第です。一点の雲もない・・・と云いたいところですが、最後の噴火で生まれた宝永火口のあたりには、雲がたなびいていますが、それはそれでまた美しいと思います。

最近、世界的に地震と火山爆発が続いていますが、富士山もれっきとして活火山、間もなく7年となる東北大震災や、南海トラフによる巨大地震との関連が云われています。

かつて、災害救援に関与していた頃、日本の110ある火山の経過を調べたことがありました。あまり良く覚えていませんが、富士山が、もっとも活発に噴火したのは1万1千年前から8千年前、その後も4千5百年前から1,300年間も噴火し続けていたとか。といっても、この国にどれほどの人が住んでいて、どの程度の被災であったかの記録がきちんと残されているのではなく、地質学者の世界・・・でしょうか。しかし、西暦800年頃、延暦年間に数年間の噴火、また、東北大震災の震源地が、ほぼ、一致していた貞観大地震の起こった頃、864年には、現在の青木ヶ原が形成され、まだ、それ程開発はされていなかったでしょうが、お江戸に4cmもの火山灰が積もったと記録されています。そして最後の比較的新しいのが宝永の大噴火、1707(宝永4)年です。

宝永年間とは1704年からたったの7年間しかありません。が、この期間は、日本は地震と火山爆発だらけでした。まず、宝永の最初の年(1704年)の4月には、羽後(現在の秋田県辺り)・陸奥(現在の福島・宮城・岩手・青森・秋田を含む一帯)での地震、12月には、九州霧島連山高千穂峰御鉢と桜島の噴火。宝永3(1706)年には浅間山が噴火、翌宝永4(1707)年10月には、わが国災害史上最大とも云われる宝永地震…南海トラフを震源とするマグニチュード8.7の大地震、そしてその49日後に富士山が噴火したとされます。さらに、自然災害ではありませんが、翌年1708(宝永5)年には、京都で1万戸以上が消失する火災、その11月には浅間山が再度噴火し、翌年迄続いたそうです。さらにさらに、翌年には、九州のど真ん中、世界最大のカルデラ火山阿蘇山が噴火する一方、青森県の岩木山と太平洋の三宅島が同日に噴火しています。何とも、不気味な時代でした。

それにしても、1万年前の話は、フンフンと聞けても、18世紀の江戸時代、時は生類憐みの令を発した徳川綱吉の施政下となると、割合身近に感じます。

美しい富士山にうっとりしている間に、列車は東京に近づきました。最近目についた報道では、直下型地震の最大死者数は16,000~23,000名との数字も出ています。毎日1千万以上の人間が活動している、世界最大と云っても良いほどのこの都市、日本の防災体制は、進んではいますが、災害はそれ以上の規模で発生します。

では、どうすれば良いの??ですが、これも笹川会長の1月26日のブログに引用されていましたが、昨年11月30日付け産経新聞に自助の重要性を述べておられます。そうです。災害時のイロハは、自助・互助・共助そして公助です。

富士山は、美しいけれども、ちょっと恐ろしいほどのエネルギーを秘めていることを忘れてはならないのですね。