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アウシュビッツを尋ねて・・・その④ 「医の倫理」・・・ニュルンベルク綱領

アウシュビッツ強制収容所は、ナチス・ドイツが国をあげて抹殺を目指したユダヤ人だけでなく、ロマ族(ジプシー)の人々、それに精神あるいは身体の障害をもった人々をまとめて殺害するために収容した、それを記憶しておくべき場所です。
しかし、前回記しましたように、それらの人々に死をもたらしたのは、本当の安楽死などとは程遠い銃殺であったり、シャワー室に偽装されたガス室であったり、不衛生や食料不足に基づく病死や餓死であったにしても、犠牲者に死を押し付けることを、あえて申すなら、それほど異様だとは思わないような雰囲気・・・意識でしょうか、それはナチス・ドイツ時代のかなり早くからあったようです。まして人々の健康といのちをまもるべき専門家である医師たち、精神科医や人類学者、それも高名な学者たちが健常から逸脱していると認知した人々を排除することに関与し、積極的に死を、それが安楽死であっても承認したとしたら、多くの住民はさほど罪悪感なく、自分たちと異質と認識した人々の殺害に加担できたのではないか・・・そんな気がします。

ナチスといえば、これも前回書いたT4作戦を忘れることはできません。(前回ブログ)一言でいえば1930年代後半のドイツで精神障害者、身体障害者に対して行われた大規模な「安楽死」という名目での虐殺ともいえます。その最高責任者であった医師カール・ブラントについては、前回ご紹介した『【新装版】ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』にたくさんの記載がありますが、本書の最後に付録Eとして1947年7月19日に行われた「カール・ブラント被告の最終陳述」全文があります。
ヒトラーの侍医でもあったブラントは、「安楽死に首を縦に振ったときに、心の底から安楽死は正しいとの確信を抱いていた」ことをその時にも十分意識し、その確信は今も変わらないと述べています。そして「死は救いである。誕生がそうであるように死も生である。殺人の意図はなかった。私は重荷を背負っている。しかし犯罪の重荷ではない。心は悲しみに満ちているが、自分自身の責任としてこの重荷を負っている。その前に、そして自分の良心の前に、人間として医師として立っている。」と述べています。

私が医学生だった60年少し昔、今のような生命倫理は学ばなかったことは事実です。しかし、私自身は、澤瀉久敬先生の『医学概論 第一、二、三部』や『医学と哲学』を熟読し質問しましたら、京都の先生のご自宅に招いて頂いたこともあります。先生は、「哲学、倫理学を勉強することは大事だが、実践の場でそれをまっとうしなさい。」と仰せでした。後には『医の倫理 医学講演集』などサイン入りで頂きました。
いのちや健康、そして死や障害をどう考えるのかは、色々な意味で難しいです。普段、そんなことを考え続けては生きて行けないような気もします。空気や安全な水と同じように、それが無くなりそうにならないと有難みが判らないのかもしれません。しかし、自分の命や健康ではなく、他人の生命、健康を扱う専門家として医師や看護師らは、きちんと意識しておかねばならないと思います。では、何をどのように学び、どのように実践し、あるいは学び続ければよいのか、また学び続けることをどう維持できるのか。

古い、懐かしい澤瀉先生のご著書

ナチス・ドイツの戦争責任を裁いた「ニュルンベルク裁判」の経過の中で、アウシュビッツなどで行われた非倫理的な人体実験や研究に対し、いわゆる「医師裁判」が開かれました。いってみれば、実験をする(研究者あるいは治療者)のもされる(被検者あるいは患者)のも共に同じく人間といった場合の倫理的な原則が論じられたのです。

現在では、医の倫理は、専門家では必須の知識です。そのおおもととなるものが、ナチス・ドイツ、カール・ブラントのような医師の存在から生まれたということは、ウクライナ、パレスチナだけでなく、ミャンマーやスーダンなどなど、今も紛争が継続している地や火山爆発、地震、洪水が発生しているところでは、絶え間なく、病気や飢餓や自然災害以外の原因、つまり人間の意志によって生命が失われ続けている中でもう一度思い返すべきかもしれません。

アウシュビッツに展示されていた画①
アウシュビッツに展示されていた画➁

「ニュルンベルク綱領 Nuremberg Code」は、非倫理的人体実験という研究に対し、ニュルンベルク裁判(第二次世界大戦のヨーロッパ戦線において、連合国<米英仏ソ>が行ったナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いた国際軍事裁判<1945.11.20‐1946.10.1 ナチスの党大会開催地ニュルンベルグで行われた>)に引き続き1947年に行われた通称「医者裁判」で提唱された「人間を被検者とする研究における倫理の原則」です。これから発展して、のちに医療者が理解しておくべき必須の原則である「ヘルシンキ宣言」をはじめとする研究や診療における倫理の基本の確立につながりました。今では「インフォームドコンセント」や「患者の権利」は当たり前の知識・・・常識になりました、それらの根がナチス・ドイツにあったことは認識しておきたいと思います。

このようなことは、いわゆる開発途上国の紛争地で働く間、しばしばそして色々に思いました。いずれボチボチ書きたいと思っています。

アウシュビッツはこれでおしまいにします。が、ネオナチ(極右民族主義思想)とか反ユダヤ主義(ユダヤ人、ユダヤ教への反感、憎悪、偏見、迫害。人種的宗教的にユダヤ人を差別迫害しようとする思想)は決してなくなったわけではありません。もちろん、私どもがどんな思想を持つか、どんな主義、政党を支持するかは個人の自由ですが、それが束になり集団になり、他人に危害を及ぼし、社会の治安を脅かすことは許されません。
現に、ハマス(パレスチナのイスラム原理主義、民族主義的政党かつ軍事組織。ガザ地区を統治者)とイスラエルの戦争が始まって以来、アメリカのいくつかの大学では、そのアンティセミティズム(antisemitism/反セム主義。大きくは人種的にユダヤ人を忌避する立場)への態度、姿勢を追求する集会が行われ、学長が退任されたところもあります。(New York Times 2023.12.12)

国が生まれて以来、先祖代々、日本人種以外はない家系がほとんどの私たち日本人には難しいというより感覚として受け止めがたい・・・是非ではなくDNA的にセンサーがないとは申しませんが、感度が悪い?とでもいうべきでしょうか、それが故にとても難しい気がしますが、あなたの命も私の命も同じ、私がされて嫌なことはあなたも嫌でしょう・・・といった感性は最低限持っていたいと思います。