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アウシュビッツを尋ねて・・・その➂ ホロコーストを実践した人々

ホロコーストとは、ナチス・ドイツ政権(とその同盟国)がドイツとその占領地で行ったユダヤ人への組織的絶滅政策で、アドルフ・ヒトラーが政権を握った1933年1月に始まり、ヒトラーの自殺でドイツ敗北が決まった1945年5月の間に行われた600万人ともされるユダヤ人への迫害虐殺をさすとされています。

1930年代以降、アドルフ・ヒトラーを総統とするナチス党が全権を握ったドイツでは、反ユダヤが国の方針となり、誇り高きアーリア人で心身健康な人間だけで国をつくる考えが広がりました。1939年9月1日のナチス・ドイツの隣国ポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦にはヨーロッパ各地が巻き込まれ、その中でユダヤ人追放、絶滅が実践されてゆきました。実際、表現のしようもない凄惨で過激な迫害、虐殺は1940年から1945年の敗戦直前に行われました。その象徴的場所がアウシュビッツでした。

1940年1月、オシフィエンチム(アウシュビッツはそのドイツ語)のポーランド軍兵舎がユダヤ人強制収容所に決まりました。最初に送られたのは常習犯罪者、ついでポーランドの政治犯でした。が、1941年、ガスでの大量殺害を行える施設が設置され、近隣に壮大なアウシュビッツ第二強制収容所を開設した後は、ドイツ国内と占領各地から膨大な数のユダヤ人が移送されました。総数40近い強制収容所が機能し始めました。ドイツ他ヨーロッパ各地から強制収容所に送られたユダヤ人は、受入れ直後に衰弱して労働に耐えられないものは直ちに殺害され、残りは劣悪な環境下の収容所に詰め込まれ厳しい労働を課され耐えられないものは簡単に殺されました。多数者を短時間に殺害するために考案されたのがシャワー室に偽装した密室に全裸の収容者を押し込め、最初はディーゼルエンジンの排ガス、続いてより効率の良い殺虫剤チクロンBが使われました。そして戦況がはかばかしくなくなった後、虐殺の証拠隠滅のため埋葬遺体を掘り起こし焼却し、その遺灰・骨を近隣の川や原野にまいたそうです。その他、生体実験、特に女性への人体実験、反抗的態度、衰弱によって作業できないものは虫けらを殺すよりも簡単に銃殺されたのです。

アウシュヴィッツ強制収容所の一角

ホロコーストは誰の責任か?ヒトラー・・・とするのは簡単です。が、「ヴァンゼー会議(1942.1.20)」というナチス高官たちがホロコーストを議論した会議はあったのですが、『「ユダヤ人狩り」や「ユダヤ人殺害」は「公的に指示されていないし、担当官庁も設置されていない」』から、ホロコーストは官・軍、政党、産業という4権力が、信じられないような意志一致の下に結果として発生してしまった事態だった、まるで日本の忖度のように事態が進行しているうちに誰もが当たり前に為すべきことだと思ってしまったとする研究者(Raul Hilberg<1926.6.2‐2007.8.4>『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』)があります。また、何十万という人々を移送するのに、人々を密告したり、集めたり、移送に関係した人々の協力がなければ不可能だったとする意見もあります。いずれにせよ、ドイツ国内次いで占領地から移送すべきユダヤ人の数が増えるにつれて「効率の良い対処法」として殺害法が変化したのです。

アウシュビッツを訪問することが決まって以来、数冊を読みました。以前に書いた『アンネ・フランクの日記』もそうですが、ホロコーストが進行することに関する責任は誰かに関しては2冊あります。

『新版 エルサレムのアイヒマン‐悪の陳腐さについての報告』は、自身がドイツ系ユダヤ人で亡命先のアメリカで政治哲学者として活躍し、映画にもなっているハンナ・アーレント(1906.10.14‐1975.12.4)が雑誌“The New Yorker”特派員としてアイヒマン裁判を傍聴して寄稿したものです。オットー・アドルフ・アイヒマンはゲシュタポ(ナチス・ドイツの国家秘密警察)隊員として数百万人のユダヤ人の強制収容所移送を統括し戦後アルゼンチンで逃亡生活を送っていました。1960年にモサド(イスラエル諜報機関)に捕まり、イスラエルに連行後、61年「人道に対する罪」他で裁かれ、同年12月死刑宣告、1962年5月に絞首刑を執行されました。その裁判の記録が本書です。この中でアーレントは空前絶後の人道の罪を犯したのは誰から見ても絶対に極悪人といえる人物でなく、ごくごくありふれた普通の官吏だった・・・つまり誰でもが、命令をまもればどんな悪事でも犯しうる・・・としました。当然、ユダヤ人側からは自らのユダヤ人性を忘れてアイヒマンを弁解しているとの非難が出ました。その後もアーレントへの批判はありますが、全体主義軍国主義下なら普通の人でも命令遵守することで途方もないことをしでかす恐ろしさ・・・批判的精神の重要性、そして人権というものの意義を、その昔ですが意識させられました。

もう一冊、同種の本です。前回書いたアウシュビッツの焼却炉横の狭い広場に残っている絞首刑台で殺されたルドルフ・フランツ・フェルディナンド・ヘス(1901.11.25‐1947.4.16<絞首刑>)の手記です。ヘスは最終的にはナチス親衛隊中佐ですが、早くからアウシュビッツ強制収容所所長を務め、続々と送られるユダヤ人を効率的に虐殺し続けます。敗戦間近で連合軍が迫った時には一兵士となりすまし逃亡します。農家で働いているところをイギリス軍に見つかり戦犯として裁かれます。かつて自分が勤務したアウシュビッツ強制収容所の焼却炉脇に、自分のためだけに設置された絞首台で刑を執行されます。その収容の間に書き残した手記が『アウシュヴィッツ収容所』です。ヘスも自分は国の歯車の一つとして任務を果たしただけで、「軍人として名誉ある戦死」を果たせなかったことを嘆いてはいますが、大量虐殺を悔いているとは思えませんし、苦しんで死ぬ銃殺よりも20分そこらで、皆が安らかに死ぬガス殺は人道的だとし、自分もこころのある人間だったが、仕事だったとしています。

さらに歴史をさかのぼりますと、ナチスドイツの「T4作戦」に行き着きます。これは、1930年代後半のドイツで精神障害者、身体障害者に対して「強制的に」安楽死を行うことを議論した会議がベルリンのTiergartenstrasse通り4番地で行われたために、後にそう呼ばれるようになったそうですが、何ともおぞましい計画が国の方針として正々堂々と、むしろ慈悲をかけて議論されている、しかもそれに精神医学や「優生学」他の専門家がからんでいる。そのような歴史、経過が『【新装版】ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』です。ホロコースト以前、科学や医学で世界の先端だっただろう頃のドイツの科学者が関与した障害者の安楽死・・・読めば読むほどホロコーストの根は深いのだとため息が出るばかりです。

読み切るのに、かなりシンドイ本でしたが・・・人間って何?だろうと思いました。

他の1冊は、『ホロコーストの科学 ナチの精神科医たち』です。少し、ほんの少し著者の感情的思いが強いような気もしましたが、ホロコーストに先立って精神病者たちに積極的安楽死の道を開く経過に関与した科学者たち(精神科医、人類学者、遺伝学者)を取り上げています。専門家が真面目に障害者や精神病者を安楽死させる方針を支持すれば、何が起こるかであり、戦後、生き残って著者との面談に応じた人や親族をインタビューした本です。科学がいわゆる科学だけでは成り立たない・・・人権、人道といったものがなければ科学は武器よりも恐ろしいと思いました。

この項を書いていて思いました。私たちは日常茶飯事をいちいち批判しては生きて行けません。しかし何でも付和雷同ではいけないのです。アレッと思うことは立ち止まり少しは考えること、おかしいと思ったことは誰かと話し合うこと、そして人間が人間である所以を時々は思い返すゆとりを持つことの重要性です。

生命、健康にかかわる保健医療者の責任・・・しっかり意識する必要があると痛感しました。