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改めて2024年と災害を想う

「年々歳々花相似 歳々年々人不同(年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず)」という言葉があります。毎年毎年、花は同じように咲いても、それを見る人は毎年毎年年をとるので、同じではないという意味の禅の言葉です。

過去数年は新型コロナ、やっと賑わいを取り戻した年の瀬のあとの2024年1月1日。
午後4時10分、見るともなくつけていたTVに、突如、地震と津波の警報!
石川県能登半島・・・60年も前に、一周したあの能登半島です。鳳珠郡穴水町北東42キロメートル地点を震源地としてマグニチュード7.6の巨大地震が発生したのです。震源の深さ16キロメートル、最大震度は同じく石川県羽咋郡志賀町の震度7!!能登地方では明治18(1885)年以来、最大規模だそうです。そして、気象庁は、直ちに石川県地方に「大津波警報」、九州に至る日本海沿岸には津波警報や注意報が出されました。

石川県能登地方で震度7、新潟県で震度6弱 M7.6(NHKより)

郷里が被災した1995年の阪神淡路大震災、数年にわたって復興と災害看護教育の開始をお手伝いした2004年のインドネシアの最北端バンダアチェの津波災害、そして発災後4ヵ月後でしたが、日本赤十字九州国際看護大学の学生、教職員ら80名で1週間のボランティアをした2011年の東北大震災が思い起こされました。
1月1日も勤務されていた方もおありでしょうが、大概の人々は、新年を寿<ことほ>がれていた中での巨大地震と津波、そして火事でした。

地震当日の報道(NHKより)

改めて、この地震で、突如、生命を絶たれた方々に哀悼の意を捧げ、そのご家族に謹んでお悔やみ申し上げます。

未だに行方不明の方とそのお身内のご心痛に共感致しますとともに、被災された皆さま方にお見舞い申し上げます。

間もなく30年になる阪神淡路大震災。当時、私は東京勤務でした。が、郷里宝塚には、震源地の野島断層から北北東に伸びる断層の延長上にあたる狭い幅の激甚地が生じ、その範囲にあった築200年に近い生家も被災しました。連絡のつかないもどかしさ、かろうじて一日後に帰りついた馴染みの地域は、ほぼ暗黒、時折繰り返す余震の中の恐怖がありました。

人々は、張り詰めた緊張感の中で、何とか踏ん張っておられました。生家付近で亡くなった方はお一人お二人でしたが、続く余震の中で、その悲しみすらも地域全体が共有しておられました。出来たばかりの避難所は、まだ管理の仕組みがなく、善意とはいえ、統制なく「送り付けられる」救援物資の山の前で、人々は当惑気味でした。しかし人の和、救援の連帯、そして学問的な行政的な機運は高まりました。「阪神淡路」を契機に、わが国の災害医療が発展し、世界の斯界をリードするまでに至っています。

しかしどの災害もそれぞれ特徴があり、ある方式がすべてにマッチすることはありません。
そして個々の人々、とりわけ被災者の抱える「問題」は確立した学問や救援の仕組みがあってもぴったりとは合致しません。

今回の能登半島地震は、わが国地方の過疎化と高齢化を如実に突き付けています。これは能登のことではありません。明日はわが街、わが身に降りかかる問題です。

多くの被災地での40%を超える超高齢状態と過疎化をみると、それが故にしっかりした道路、運搬網や通信網が整備されているべきだと痛感します。しかし、過疎化し、ほぼ年金生活者が多い地域の社会インフラの維持経費はどうまかなえばよいのでしょうか。

そしてそのような地域に起った災害に対して、既存の救援の仕組みで可能なことを実践するとともに、新たに出てきた問題に、早急に取り組まねばなりません。明日は我が身なのです。

被災地には雪が舞っています。冷たいみぞれも・・・
自然は情け容赦してくれないのでしょうか。

亡くなられた方のご冥福を祈ります。
安否と所在が不明の方々の一刻も早い状況把握を祈ります。
被災された皆々さま、少しでも身体とお心が休まりますように。
そして、困難な中の救援に当たられている皆さまの安全を心から祈ります。