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世界人道の日

8月19日は、世界人道の日でした。

この日が決まったのは、2003年8月19日に、当時の世界の最大の「人道の危機」だったイラクのバクダートに開設されていた国連事務所が爆破され、事務総長特別代表として陣頭指揮を執っていたセルジオ・ヴィエラ・デ・メロ氏を含む22名の国連職員が犠牲になったことによります。

ずいぶん昔のような気もしますが、ジュネーブの国連欧州本部パレ・デ・ナシオンのEビルディングの2階には、この事故ともうひとつ、アルジェリアでの国連の事故で亡くなったスタッフを悼むエンブレムがあります。爆破でちぎれた国連旗の断片と犠牲者のお名前があり、毎年のように、そこに参りますと、つい昨日のような気がします。親しくはありませんでしたが、何度か、デ・メロ氏にはお目にかかったことがあったからかもしれません。

90年代末、WHO本部に新設された人道援助部の現場支援担当部署に勤務した頃、デ・メロ氏は、アフリカの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)勤務を終え、90年代初頭、増え続ける紛争に対処する国連活動の統括のために設置された、通称OCHA(私はオチャ=お茶と呼んでいましたが、正式には国連人道問題調整事務所(UN Office for the Coordination of Humanitarian Affairs)のトップに着任されていました。私が所属したWHOの人道援助部(EHA: Department of Emergency and Humanitarian Assistance)のオール国連版の組織だったので、当時、混乱の極みにあったコソボや旧ユートスラビアなどのバルカン問題、1989年の旧ソビエト軍撤退後も混乱が収まらないアフガニスタン、そしてアフリカ中央部の大湖沼地帯(アフリカのど真ん中のいくつかの湖に面する紛争続きの国々)対策の会議などででした。ブラジルのお生まれですが、ソルボンヌ大学の法学博士とか、厳しくも明るく、スマートで、私にはとりわけハンサムに思えた・・・つまり、好みのジェントルマンでした。

以前、紛争地近傍勤務の際、ちょっとした物音を襲撃と勘違いして、会議を中断して、床に伏せたら、建物の玄関の鉄の扉を、門番のオヤジが直していたとか、素早く逃げるために、常に出口の位置に気を付けていたなど、エンブレムの前では、ある種トラウマが復帰するような気もします。私の世代は、第二次世界大戦時、防空頭巾を冠って逃げた記憶や不気味な空襲警報のサイレンや、ブゥーンンと鈍いB29爆撃機の音におびえたものですが、今も紛争が絶えない地の子どもたちは、いったいどんな想いだろうか、大人になった時にどんな思い出があるのだろうかと思います。

めぐりくる8月19日、8月は、ヒロシマ、ナガサキそして、15日の終戦の日、難しげな人道などと云わなくとも、紛争がなく、おなか一杯食べられること、世界の子どもたちにそれだけを願う次第です。

さて、人道の日が決まるきっかけとなったバクダートの国連事務所爆破から14年も経ちます。が、世界の不穏さは、少しも改善されていません。それどころか、第二次世界大戦後の70有余年、戦争による犠牲者をひとりも出していないわが国の周辺に、わが国のそれだけでなく、この地域の、そしてさらにグローバルな治安を脅かす引き金的リスクが大きくなっています。

紛争地では、生死が裏表に存在します。

事故は、たまたまかもしれません。が、事故で亡くなる国連職員も、紛争地での保健医療や食糧、水また住まいや農業そして環境整備に貢献している人道援助機関スタッフさらに紛争を報道するために現地に入るメディアの人々の犠牲も、年々増えています。そして、それらどちらかと云えば外部からの犠牲者以上に、紛争のある現地で生まれ育った人々、生まれたての赤ん坊からお年寄りまで、時には生まれる前のお母さんのおなかのなかで生を終え・・・終えさせられる子どももいます。

この世界人道の日を期して、国連事務総長がコメントを発表します。毎年、毎年。美辞麗句だけで実態がないなどとは申しませんが、事態はほとんど変わっていないという現実に加えて、最近広まっている先進国でのテロや先進国内でのヘイトスピーチの蔓延、そしてしばしば発生する人種的対立、人道的であるということは、途上国の紛争対策ではありません。人道の日って、何の役に立っているのか…と思いました。

国連のエンブレム

 

2007年12月11日のアルジェリアの爆破事件でちぎれた国連旗