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わが国に知の世界を広げた「生田長江」

先般、鳥取県×日本財団共同プロジェクト「みんなでつくる“暮らし日本一”の鳥取県」を頼りに、私どもが行っている「日本財団在宅看護センター起業家育成事業」への研修生リクルートに鳥取に向かったことをブログ「地域社会 コミュニティを維持すること」に書かせて頂きました。

県関係者との面談まで少し時間があったので、県庁一階の県民室に参りました。鳥取県の歴史、名所旧跡、名産品、色々な催しの広報や社会活動の情報が展示掲示されている一角に、郷土出身文学者シリーズという冊子が並んでいました。その⑥が『生田長江』、その名前に、心がザワッとしました。どんな文学者だったのかという疑問ではなく、忘れている何か別のものがあったような・・・

手に取ってパラパラと見て、直ぐに思い出しました。ニーチェを日本に持ち込んだ方、平塚らいてう<ライチョウと読みますね>らの、今から見ても斬新さにかげりの無い、新しき女性運動、雑誌『青鞜』が生まれた背景に存在された巨大な翻訳家にして評論家、小説家、劇作家とされています。が、気持ちがザワついたのは、そんなことではない、何だったのか・・・気ぜわしくページを繰りました。何だったか、忘れていたことは、生田長江という巨大な文学者は、ハンセン病を背負いながら、日本の近代化に絶大な足跡を残された方でしたが、私(たち)が高校生だった頃、昭和30年代にそのことをキチンと受け止めていなかった・・・何か口にしただろうけど、決してポジティブなことではなかっただろうという、その想い、卑屈な記憶があったのでしょう。ぼんやりしていますが、何か口走った卑怯な云い方が、どこかに残っているとげのように思い出されました。

高校生の頃、文学少女とよぶに相応しい、活字中毒、いえ、書籍からはなれられない友人たちがいました。私たちは、サルトル、ボーヴォワールにかぶれ、三太郎の日記を良く理解しているかのように話しました。ニーチェにかぶれていたのもいました。今も覚えているのは、「みだりに人とつきあったらあかん。ニーチェが云うてはる(云っていらっしゃる  の大阪弁)のは、ひととつきあったら、色々言い訳したり、格好つけたりするから、柄が悪くなる、特に品性の悪い人とつきあったら絶対あかん!」と解説(*)してくれていました。

生田長江 本名弘治は、1882(明15)年4月21日生まれ、私の祖父母世代です。そして1936(昭11)年1月11日、第二次世界大戦の前に亡くなっています。54才という年齢は、この頃には短すぎたとは申せません。が、もし、この方が、この病気を持っていなかったら・・・と、思わずにはおれませんでした。

その小冊子から、2013年に、荒波力著『知の巨人:評伝生田長江』が出版されていることを知り、行きつ戻りつ、1週間をかけてしっかり読みました。

​ 生田長江 本名弘治は、今の鳥取県の日野町生まれ、若くして兄のいる大阪に出、英語を学び、キリスト教に触れ、さらに東京に出て、第一高等学校から東大哲学科に学んでいます。若い時から、文筆に優れておられたのですが、日本の近代文学に出てくる高名な方々のすべての人々と関係があるといっても間違いではないほど、活躍されたのに、何故か、あまり名前が出なくなった…その理由がハンセン病だったとしたら、日本の知的レベルもこぞって、この病気を差別していたと云えるのではないかと思います。​

たった一人、この方の活動は、20世紀初頭からの日本の文学史のように思えました。

上田敏、馬場弧蝶、森田草平は同志的、与謝野鉄幹・晶子夫妻は隣人的関係、佐藤春夫、生田春月らは弟子的関係、大杉栄らとも交友関係があり、そして女性のために開催された講習会『閨秀文学会』の中に、平塚らいてう、大貫かの子、青山菊栄がいたのです。

そしてニーチェ(『ツァラトゥストラ』他、全集)だけでなく、ダンテ(『神曲』)、ゲエテ(『ファウスト』他)、トルストイ(『アンナ・カレニナ』)、ドストエフスキー(『罪と罰』)、ルッソオ(『懺悔録』)、ツルゲネフ(『猟人日記』)、オスカー・ワイルド(『サロオメ』)、フローベル(『サランボオ』)、ダヌンツィオ(『死の勝利』)、そして一部分だけですが、マルクス『資本論』他、おそらくどなたもがどれかは手に取ったことがあろう、膨大な翻訳のほか、沢山の評論、啓発書、英語の勉強法などなど・・・

キリスト教に親しまれたのは早かったのですが、後年、総括的に取り組まれた『釈尊傳』の途中で54才の生涯を終えられました。その頃には、失明され、容貌が崩れるまでに進んでいたそうです。『知の巨人』の中に、後に作家として活躍された同郷の大江賢次氏が、郷土の先輩を尋ねられた時の記録があります(346頁~)。

初めてこの偉人の姿を視た瞬間、思わず息を呑んだ。その姿は「くずれたガンジーの様だった」・・・持ち上げた長江の右手を見ると、ショウガのような手に画家のデッサン用の鉛筆がくくりつけられている・・・・

ただ、膨大な業績のすべては、割合、若いころに発病したハンセン病を抱えながらのものであり、この方が社会的活動を減じられていったのは、決して病気の所為ではなく、卑怯にも、この病気をあえて暴露した同業者がいたことであったのです。が、生田長江という人の知的活動は毫も揺らいでいないことに圧倒されます。長江の一生の業績は、古い時代のワカモノがかぶれた西欧の智をわが国に導入したこと、そしてそれから日本人一般の中の近代が始まったことのように思いました。このハンセン病対策を活動の一つにしている笹川記念保健協力財団に来なかったら、この病気に、斯くも深くかかわることもなく、生田長江にめぐりあうこともなかった…と思うと、数十年タイムスリップして、もう一度、高校時代をなぞりたいと思いました。

20170519生田長江② 20170519生田長江

(*)正確には、生田長江訳 ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」 隣人愛の節にある一節、「ただにその知識に反して談<カタ>る者のみ詐<イツワ>るにあらず、その無識に反して談る者は更に甚だしく詐る。しかしてかく汝等はその交際に於て汝等自らを談り、汝等自らを以て隣人を欺く。かく愚なるものは言う。「人と交われば品性を害<ソコナ>う。何らの品性を備えざる場合に於て特に然り」と。