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12年目のマンダレーハンセン病回復者村

日本赤十字九州国際看護大学教員だった2004年8月、学生20数名らとミャンマーを訪問しました。同年春休みに、それぞれ学年が上がる1,2,3年生たちとベトナムを訪問していましたが、同大学3年次の選択科目国際保健・看護課程初の海外研修でした。

それから12年、現在、私的リプロダクティブ・ヘルスプロジェクト・・・つまり子育て専従者もいるようですが、当時はカワイかった学生たちのいずれも、国内外の病院や地域保健で活躍する、(失礼ながら、)三十路超えの立派な中堅保健専門家、そして品良いプレミドルに差し掛かっている様で、風の噂をも含む消息をチラチラ耳にしたり、実際に会ったりするにつけ、本当にうれしいく眩しく思います。

さて、今週、私ども笹川記念保健協力財団の重要な任務のひとつである、日本財団からWHOのGLP(Global Leprosy Program 世界ハンセン病対策部)に提供される資金の効果的活用を審議する例年の諮問会議をミャンマー第二の都市マンダレーで開催させて頂きました。そして、会議後の半日、マンダレー郊外にあるハンセン病病院と千数百名の回復者が暮らしておられる村を訪問しました。かつて学生と訪ねたところです。

海外渡航が当たり前の今日ですが、看護学生の海外研修にハンセン病関連施設が対象になることはほとんどないのではないでしょうか。後に、自分自身が、ハンセン病対策を主務とする財団に勤務することになるなど思ってもいませんでしたが、12年前、このYENANTHAR LEPROSY HOSPITALと近隣の回復者村を訪問させて頂くことを決める際に、相当悩んだことも懐かしく思い出しました。

1996(平成8)年、長年、ハンセン病に罹患した人だけでなく、病気がおさまった人、回復者とよばれる人々をも苦しめてきた「らい予防法」の廃止が決まり、「らい予防法の廃止に関する法律」が制定されました。続いて、1998(平10)年、鹿児島県の国立ハンセン病療養所星塚敬愛園と、熊本県の菊池恵楓園の入所者ら13名が、熊本地裁に「らい予防法」違憲国家賠償の請求をされ、2001(平13)年に、原告勝訴が決まりました。当時の小泉純一郎内総理大臣が、国は控訴しないと談話を発表されました。私が、看護大学に着任した年でした。さらに2003年、熊本県の有名な黒川温泉をめぐる「事件」(西日本新聞アーカイブ)がありました。事件の詳細はおきますが、私が思い出すことは、当時「元患者」と十把ひとからげに呼称されていた人々が「入所者」、「退所者」そして「回復者」と、状況に応じて呼び分けることが決まったことでした。

これらはすべて九州内であり、毎日の報道で耳慣れ、見慣れたものではありましたが、長年の「隔離」政策は、「入所者」「退所者」「回復者」らを地域社会や家庭から切り離しただけでなく、療養所外で働いている大多数の医師や看護師他保健関連専門家の意識から、この病気とそれに侵された人々-ご本人だけでなくご家族や知人友人も含め-を遠ざけてしまっていました。それが故に、無意識の内に遠い存在であった疾患とその罹患者、回復者といった受け止め方の中で、海外とはいえ、ハンセン病関連施設に看護学生を団体で引率してよいのか、また、学生がそれを受ける気構えがあるのだろうかなどなど、今となっては苦笑するしかないのですが、悩んだことも懐かしい思い出です。

マンダレーから車で1時間半、かつての道筋はやや舗装が行き届き、家々も以前よりはしっかりした建材が増え、車、単車の往来は往時と比べられないほど激しくなっていました。が、目を少し遠くに向けると、一こぶの白い牛がゆっくりと草を食み、ほとんど人家が見えない緑一色の草原や収穫の終わった畑が広がる光景は変わっていません。彼方の山々の形も。また、巨木の陰や路傍の駄菓子屋風の店先で、ロンジィ姿の男性や女性がたむろしていること、ホッペにタナカ(タナカという木の根や幹を摺ってできた粉末を水で溶いて顔に塗る薄い黄色の日焼け止め、今はコスメとしても有名)を塗り付けた子どもたちがふざけていること、たまに頭に乗せた平かごにバナナなどを載せた女性がゆったりと歩んでいる姿も変わらぬ光景です。

道の両側に、12年前にはなかった英語とビルマ語のLEPROSY HOSPITAL YENANTHAR MADAYAの立派な標識があって、病院への入り口が判りましたが、木立の中に続く道はその昔と同じでした。

以前はなかった事務室兼研修室的な部屋で、パワーポイントで解説をうかがい、平屋病棟が続く病院を見学しました。当然ですが、病棟は以前より整然とし、複数のスタッフがケアをしていました。また、いささか機材が増えた・・・といっても、大して見るべきものはありませんが、午後遅い訪問ではありましたが、二人の通院患者がハンセン特有の手指の変形を矯正中でした。男性病棟三つと女性用一つを見学し、スタッフの通訳で、いくばくかの対話をいたしました。12年前、90歳の女性がおられたことを思い出しましたが、今回は19歳の青年が入院していました。

病院近傍の通称「ハンセン村」の入り口は、12年前とまったく同じ。学生を2グループ分けして説明下さった集会場も、村の大通り?も、ひしゃげた棕櫚のような葉で作った塀も、道の真ん中の水たまりも、うろつく犬、鶏、さまよっているかのような豚、ヤギも、おへそを出して駆けている子どもも、人懐っこい人々の笑顔も、何一つ変わっていないように見えました。屈託なく、「ハンセン村」の人々と交流し、子どもたちと戯れ、共に自家製の総菜を口にしていた学生たちに、差別的な行為をしないかと気をもんだことを恥じたものでした。

村人の収入のためのプロジェクトとしての小物の縫製場も、そこにある時代がかった足ふみ式のミシンも、皆にお茶をふるまって下さった小さな円卓も、そのままありました。ですから、突然、家々の陰から、当時の学生たちが、子どもたちと手をつないで、ひょいと現れてたとしても、また、あるお宅の庭で、学生たちが子どもたちと嬌声を上げて鬼ごっこをしていても、何の不思議も感じないほど、同じでした。

ミャンマーは、大きく変わろうとしています。新しい首都ネピドーが国土の真ん中あたりに建設されて10年、かつては、漢字、平かな、カタカナの日本文字の広告が残ったままのわが国の中古車ばかりが走っていたような道路には、すべてとは申せませんが、圧倒的に新しい車が増えています。なのに、この村は同じ・・・・

人懐っこく穏やかな人々のさまも同じであることは、事態が決して悪い方向には向かっていないと実感できましたが、人々の暮らしが目に見える形で変わっていないこと、そして、厳然として「回復者」村があることは、そのようなものがやはり必要なことを意味しているのでしょう。

ハンセン病は、とても、とても弱いけれども、とてもとてもしつっこいらい菌によって起こる感染症です。

何故、そんなに弱い、弱い「ばい菌」が原因なのに、撲滅できないのか、不思議な気もしますが、人類が初めて撲滅した天然痘や、大よそ制圧状態にあるポリオなどと異なり、予防接種という手段が成り立っていません。しかし、かつてハンセン病が多数みられたヨーロッパで、今では、どこでも、無料で入手可能な多剤併用療法が確立する以前に、この病気が消退したのは社会・経済開発による生活状態の改善によると考えられています。

弱さゆえに生き延びてきたばい菌との闘いは、医学医療、公衆衛生、そして生活環境の改善など、多面的なアプローチが必要です。2004年の看護大学3年生は、卒業後10年を経た現在、そのような意識をもって、人々の健康の回復、維持、向上に貢献していてくれるのだと、ちょっと胸が詰まる想いで、村にお別れしました。