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高山右近

公益財団法人笹川記念保健協力財団では、2014年から、国立ハンセン病療養所ご勤務の保健医療専門家の方々に、まだ、新たなハンセン病の発生が年間1600名を超えているフィリッピンへの約1週間の視察研修の機会を提供しています。などと云うと、フィリッピンは、まだ、大変!!と誤解を招きそうですが、この国の人口は約1億百万人の大国ですから、WHOが1991年に提示した「人口1万当り新患1名未満」という公衆衛生学的ハンセン病制圧目標(この国なら10,001人の患者数以下)は十分以上にクリアしてます。そして、きちんとした登録制も確立していますので、治療上の問題は大してある訳ではありません。

一方、わが国のハンセン病の年間新患数は2,3名ですから、ほぼ解決したに近い状態ではあるのですが、昨今の人口移動の激しさから、きちんとした診断治療ができる体制の維持は必須であるにもかかわらず、13カ所の国立ハンセン病療養所では、新患を診断しケアする機会はゼロなのです。そのような状況から、財団では、長年支援協力してきたフィリッピンのクリオン療養所・総合病院を頼りに、わが国のハンセン病診療にたずさわれている方々に、かの国の診療状況を視察見学頂くことを提案し、厚生労働省のご指導を得て、実施に踏み切りました。

クリオン診療所は、1906年、当時のフィリッピンの統治国アメリカのハンセン病関係者によって開設された、歴史的に有名な施設です。フィリッピン全土から多数の患者が送りこまれ、「生ける屍者の島」とよばれたこともありました。現在の約20,000人の島民は、ほぼすべてハンセン二世、三世からなりますが、今は希望の島に替わっています。多分、四世も生まれていると思いますが、この療養所と島の発展には、一人のハンセン三世医師の貢献があるのですが、今回はそれは置いて、別の話です。

1930年代、日本のハンセン病対策としての隔離を徹底するための施設として、1930(昭5)年に開設された国立ハンセン病療養所の第一号岡山県の瀬戸内海の長島に開設された愛生園は、このクリオン島のハンセン療養所がモデルです。

何故、フィリッピンの療養所がモデル?と思いました。もちろん、当時の昭和の初期のわが国のハンセン病関係者が、世界の趨勢を熟知していたことによるのでしょうが、ハンセンをめぐるフィリッピンとのご縁は、実は数百年も遡ります。今回は、そのお話しです。

ご承知かと思いますが、豊臣秀吉は、1591年、当時スペイン領であったフィリッピンの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスに、入貢(ニュウコウ。外国の使節が貢<ミツギ>物を持って訪問すること)を求める書簡を送り、翌年、総督がドミニコ会修道士に返書と贈物を届けさせています。そして、ルソン国とよばれていたフィリッピンの現マニラの一角に、当時のフィッリピン在住の日本人を集めて日本人町を作っています。16世紀末のマニラに、街を作れるほどの日本人が住んでいたのですね。昨今の内向き日本人とは大いに異なるご先祖たちですが、今年のNHK大河ドラマにも出ている呂宋<ルソン>助左衛門(1565-?)は、名の通り、ルソンで大儲けをした大阪の堺出身の商人です。この方、秀吉に、異国の珍品であった香料、蝋燭<ローソク>、麝香(ジャコウ、ジャコウシカの雄の腹部にある香嚢内の分泌物を乾燥した香料。生薬でもあり、強心剤などとして使用。市販の生薬にも含まれている)や、わが国の焼き物とは異なるルソン壺などを献上しましたが、後に町人なのに贅沢が過ぎるとお咎めを受け、逃げ出したのがルソンです。

ルソンに渡った日本人で、ハンセン病にご縁あるのは、代表的キリシタン戦国大名とよばれているジュスト高山右近(1552-1615)です。右近は、現在の大阪府北部から兵庫県東南部が、畿内摂津の国とよばれていた時代の中規模の大名ですが、生まれは父の任地であった奈良県榛原町です。この方は敬虔なキリシタンでなければ、織田信長から秀吉、そして徳川家康への時代の戦国大名の一人に過ぎず、今ほど知られることはなかったでしょう。当時の大阪付近は、戦乱が続いていましたが、いくつかの戦い成果と運の良さもあって、高山家は高槻城主となりました。右近の父友照は、若き頃に切支丹伴天連<キリシタンバテレン>の影響を受けたことで、この一家をしてキリスト教に帰依させたようです。中でも、右近の宗教心は鉄壁のごとく強く、後に異教徒迫害に転じた秀吉や最後に天下を取った家康からも厳しく棄教を強いられますが、地位や名誉、所領地を捨てて、祖国日本を離れてルソンに落ちています。

この方、戦上手とも云えませんが、武功がないわけでもありません。しかし、武士としては弱腰に見えるほど、戦を避けようとしたように見えます。また、堺生まれの茶の湯の大宗匠千利休の高弟であり、文化人でもありましたので、そのお人柄にひかれた他大名がキリシタンになったり、洗礼を受けないまでも親キリシタンになったりしたとも云われています。が、反面、わが国古来の神道や中国伝来の仏教には冷たかった・・・一神教の信者ですから当然かも。

日本での最後の日々は、徳川政府からの厳しい追放令が出ます。家族も含め、宗教心は揺らぎません。加賀百万石の食客的立場を捨て、家族の女性は粗末な駕籠、右近は徒歩<カチ>で大坂<当時はこの字>に向かい、そこから船で長崎に向かいます。そしてルソンに向かいますが、何故か、普段の4倍近い40日以上がかかっています。結局、ルソンに着いたのは1614年12月上旬、この辺りは、フィクションかドキュメンタリーかと思いながら読んだ加賀乙彦著の『高山右近』での知識です。

ルソンではよく知られていたキリシタン右近なので、現地のスペイン総督らに大歓迎されますが、ほどなく・・・・マニラ到着後たった40日ほどで亡くなっています。今も、凛々しくハンサムな右近の像が、マニラの、ちょっとややこしいPaco駅のディオラ広場にあります。上記フィリッピン視察見学では、毎年、その前を通ろうとするのですが、悪名高きマニラ交通渋滞に阻まれて、初年度だけしか到達できていません。スミマセン。ただし、同じ像が、日本の高槻城址公園にもありますので、ご容赦を。

その、祖国を捨ててルソンに向かう右近一行の中に、20名ほどのハンセン病者がいたとされています。また、日本から船一艘分の「らい」者をフィリッピンに送り出したという話もあるそうです。ならば、ルソンのどこかに眠る日本のハンセン病者がおいでなのでしょう。高山右近から派生して、目下、日本とフィリッピンのハンセン病者の移動、日本のキリシタン時代のハンセン病について、もっと知りたいと思いつつ、時間を浪費していますが、とりあえず、今回はイントロ的な情報まで。

総合病院前

 

高山右近像