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「世界保健 社会的決定要因の健康格差に関する世界報告書」‐1 健康を規定する社会的要因と健康の公正性

先日、WHO(世界保健機関)が「世界保健 社会的決定要因の健康格差に関する世界報告書(World report on social determinants of health equity)」(WHO HP)を発表しました。

248ページもある英語の報告書で、きちんと読むのはちょっと大変ですが、日本の中でも保健医療サービスの体制変化が必至となりつつある中、世界の趨勢を感じていただければと思って要約の要約を作ります。が、馴染みのない言葉が多いので、まずキーワードであるSDHとHealth Equityを説明します。

健康を規定する社会的決定要因 SDH<Social Determinants of Health>」と「Health Equity(健康の公正性)」、それが崩れた状態が「健康格差(Health Disparities)」です。

SDH=健康を規定する社会的要因って何のこっちゃ??ですね。
この言葉は社会医学とか公衆衛生といった個々人の病気対策、つまり医療施設で専門家である医師が病気を治す「医療」ではなく、地域の住民や集団全体の健康を考えることが始まった際に生まれた概念のようです。それはいつの話かといえば、そもそも「集団」とか「地域(の人々)」の保健が問題になり始めたのは18世紀後半から始まったイングランドでの産業革命で、新しいエネルギーとして最初は水力、ついで蒸気機関さらに石炭を使うことで動力が大型化します。それまでの家内工業ではなく、大型の工場が生まれ、多数の労働者が必要となります。貧しい農村から人々は仕事を求めて都市に集中します。

たくさん人が集まる・・・例えば災害後の緊急避難センターです。
狭いところに人々が群れます。現在のわが国では、人々は一定レベルの衛生知識を持っているうえに、素早く救援対策がとられます。めったに大感染症流行はおこりません。が、今から200年以上も前、街の機能も整備されておらず、人々は知識を持っていない・・・というより感染症の概念も確立していない時代、劣悪な居住環境や就労環境下に人々が集団化する。保健医療制度もほとんどない中では貧困や低栄養、それらの劣悪な環境が健康に影響すると主張した人々が現れました。例えば、イギリスで公衆衛生の概念を唱えたエドウィン・チャドウィック(Edwin Chadwick 1800.1.24‐1890.7.6。イギリスの社会改革者)は工場の労働環境や街の上下水道整備が必要だと訴えました。それは個々人の健康はもちろん個人の生活のあり方によりますが、それ以上に地域や社会の環境から大きな影響を受けるとの考えでした。

日本でも『ああ野麦峠』(角川文庫)に記されたように、明治時代、信州の製糸工場では国策の生糸生産のため、貧しい農村からの若い出稼ぎ女性たちが、一日10時間もの就労や室温40℃にもなる環境下で働かされたという記録もあります。健康をまもるのは、病院や医師や看護師だけではないのです。

WHO(世界保健機関)は第二次世界大戦後の1948年に世界の人々の健康をまもるための国際機関として設立された際、「健康とは、身体的精神的社会的に完全に良好な状態」と定義しました。すなわち「社会的」な健康にも目を向けてはいたのですが、実際にそれが何を意味するかはあまり定かに認知されていたとは思えません。

1940年代後半は戦場だったヨーロッパやアジアの復興、1950年代以降はかつて宗主国とよばれた西欧諸国の支配下にあったアフリカやアジアの植民地が独立しました。「国際協力」という言葉が使われだしたのは1960年代ですが、当時は国の発展とは経済的富裕さだと思われていたようです。

1977年、WHOが「すべての人に健康を!(Health for All!)」というスローガンを、翌年には「プライマリー・ヘルスケア(Primary Health Care、PHC)」の概念を示しました。PHCは、医師や看護師その他の保健医療専門家を排除はしませんが、個々の人々が自分の健康をどう護るかを自ら考え実践するという住民主体の予防的な取り組みであり、さらに「健康の公正さ(Health Equity)」という差別偏見なく、最も保健医療を必要とする人々に適正に対処することを目指します。これは歴史上初の健康を中心とする開発理念でした。そして世界は徐々に発展しましたが、同時に国と国の間、また一国内にあっては都市部と地方などの地域や企業就労者と農業や漁業民、また、国によっては、例えばアメリカのいわゆる白人とアフリカ系やヒスパニック、アジア系など民族的に健康をめぐる格差が目立つようになりました。

1986年、WHOはカナダのオタワで健康をめぐる社会的要因を主題とする会議を開き、ここに人々の健康をまもり、それを増進するためには、病院など医療施設や医師や看護師といった専門施設や専門家を充足するだけでなく、人々の住む社会の環境や、教育など人々の能力、つまり健康を目指すための社会的要因を考慮すべきと提唱しました。この時に確立した「健康を規定する社会的要因(Social Determinants of Health, SDH)」という言葉はとても重要ですが、実際にはあまり注目されず、世界各国のSDH研究は2000年以降に進みました。

ぶっちゃけますと、健康に関係するのは病院や診療所、医師・看護師らの専門家、薬剤やワクチンだけでなく、個々の人々の教育レベル、居住環境、安定した就労と給料、安全な食物や水の継続的補給、社会の安定、環境、平和などなど、ま、すべてのものなのです。

では、次に「健康の公正性=Health<健康の>Equity<公正性>」です。
Equity公正性と似た言葉にEquality平等性イコーリティがあります。2+3=5の〈=〉がイコールです。

Equality/平等性は色々なモノ、資源、機会を各人や各集団に同じ「量」、同じ「機会」を分配すること、人が10人、リンゴが10個なら、各自リンゴ一個ずつが平等です。が、公正かどうかは判りません。つまりequity公平性とは10人の状況の違いを認識した上でどう分配するか、各人のニーズと状況にあう分け方をいいます。例えば一人は心臓の拍動がほぼ止まりつつある終末期の高齢者、一人は妊娠5カ月の痩せた妊婦なら、リンゴはどう分配すべきかを考え、可能な限り必要度にあう適正な分け方をすること・・・実際にはとても難問ですが・・・・考え方はそうなのです。

Equality/平等性とは・・・

開発途上国に病院を建設し治療機会をつくれば、すべての人に医療の恩恵が行き渡ると考えるのはequality平等性に基づきます。が、病院の前の住民でもお金がない、伝統的に女性の受診が困難など、施設を使う機会がすべての人に等しくなければ目的は達せないのです。Equity公正性の考えなら、そのように差別されている人々にどうすれば受診機会を作れるかから入らねばならないのです。女の子は学校に行かなくてよいとの考えがある集団に学校を作ったとしても教育機会はすべてのこどもにequity公正性を保証していません。時代によって、習慣や伝統は異なり、悪意でなくとも実際に差別が発生していることも多い・・・公平と公正の考えは重要です。

平等性(Equality)と公平性(Equity)という言葉は、一見、同じような意味と思われ混同されていますが、適正に使うことはとても難しいのです。端的に申しますと、平等は「同じ量、質、程度、価値、能力など、測定できそうに思いますが、公正性は「偏りのない質」であり、簡単に測定できない・・差別偏見にも関連するちょっと難しい、やっかいな考え方ですが、何かを為す時、両方をまっとうすることはほとんど困難ですが、考え方は知っておくべきなのです。

国際保健では、主に人々の健康を扱いますが、その公平性とは単に平均寿命や、死亡率、罹患率などに測定できるものではなく、生活の環境、健康の状態、その質が問題なのですが、それを簡単に示すことは至難なのです。
次回、WHOの「世界保健 社会的決定要因の健康格差に関する世界報告書」を要約します。