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南インド タミル・ナドゥのハンセン病コロニー

先週、インドの東側の南部、ベンガル湾に面したタミル・ナドゥ州の州都チェンナイとその周辺のハンセン病関連施設を訪問しました。笹川記念保健協力財団に移って間もない頃、お目にかかった社会学者ゴパール博士は、自らも罹患者であり、1994年、世界的なIDEA(International Association for INTEGRATION, DIGNITY and ECONOMIC ADVANCEMENT )という、ハンセン病者や家族が社会と一体化するための活動をはじめられた先達のひとりであります。かつて手の付けようもないとされた蔓延地タミル・ナドゥの現状を是非ご覧なさいとのお勧めを受けており、必ずと交わした約束を果たせました。

チェンナイという地名は、16世紀のインド大陸南部に頻発した地域紛争に功あった領主にして勇将チェンナッパの名前に由来します。しかし17世紀に、当時の大英帝国がインド亜大陸一帯を植民地化し、その経営を東インド株式会社委ねました。わが国を含むかつての宗主国は植民地各地に対しで、まこと不遜・・・と申すか無神経でした。古来の名前を自分たち風につけ替えましたが、チェンナイはマドラスとなりました。短期間のフランス支配時代を挟んで、マドラスはインド経営の拠点として発展させられました。1947年、インド独立後もそのままでしたが、1996年、植民地時代の名前をやめてチェンナイに戻りました。ちなみに、カルカッタはコルカタに、ボンベイはムンバイに替わったのも同じ時期です。

インドは、現在も世界の新患数の70%近くを占めていますが、古くからハンセン病蔓延地だったことを物語る18世紀に始まる施設もありました。ある意味、大国インドの悠久の歴史を垣間見た思いをさせられたのは、1971年当時、知事の誕生日を期して寄付を募って開設されたというコロニーの名前でした。“LEPROSY BEGGARS REHABILITATION HOME(ハンセン病物乞いリハビリテーションホーム)”なのです。地名や氏名は、ある種の記号に過ぎないとおっしゃる方もおいでではありますが、声を出して読むには、いささか抵抗がありました。日本なら、差当り、「希望の家」とか、「のぞみハウス」とか、あるいはせいぜい、知事のお名前をつけたりするところでしょうが、そのものずばり!! そんなことより、実態が大事ということでしょうか。

10年、20年前に比べ、格段に改善したとの説明をうかがっても、狭い薄暗いというより入口以外に灯りの入らない小空間に暮らす人々の、その昔はどうであったかと思わざるを得ませんでした。そして、今も、手足の包帯に分泌物がにじみ出ている、いささか生々しい「患者」たちのほとんどがそれなりのお歳であることも、行きずりに近い見学者には辛い想いを禁じ得ませんでした。ただ、コロニーのリーダー他の方々によれば、今では、三度三度の食事もあり、皆、毎日、安心して暮らしていると仰せだったことで、ちょっと、ほんのちょっとですがホッと致しました。それにしても、もし、今の職に就かねば、決して知ることもなかった状況にも、忸怩たる思いを禁じ得ませんでした。

ゴパール博士らがIDEAを始められた頃の経緯は、是非、財団HPブログをご高覧下さい。

今回は、このリハビリテーションセンターを皮切りに、18世紀に始まる州立診療所兼研究所、砂糖工場が運営するコロニー、また、民間のコロニー数カ所、そして、ハンセン患者家族の二世女性たちが、日本財団関連の奨学金を得て勉強している看護大学など、3泊4日で、総計9カ所を訪問させて頂きました。現地の隅から隅まで、また、患者やそのご家族のみならず、すべてのハンセン病関係者を熟知されているゴパール博士の案内のお蔭ではありましたが、日本の1/3の面積のタミル・ナドゥ州ですから、飛行機も使い、また、車で走っている時間の方が長かったとも申せます。そもそもインドは、広大にして多様なお国であり、同じ街でも2度や3度では見たあるいは観た気がしない上、異なる州は、まるで異なる国でもありますので、あまり見てきた!!と偉そうには申せませんが、チャイとマサラティだけは、どこでも同じ美味しさでありました。いずれ、ご報告を。

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