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放射線災害医療サマーセミナー

保健医療系の医学看護学部と工学部の学生・院生対象の放射線災害医療セミナー2年目が終わりました。本セミナーは福島県立医科大学、長崎大学と私ども笹川記念保健協力財団の共催による、ちょっとした多職間学生研修で、講義、(東京電力第二)原発や被災地の見学そして地域活動の1週間からなります。

原発や被災地見学のために移動する間、各所で「除染中」とかかれた旗、除染のため削り取られた土などを詰めた多数の大きな黒いプラスティック袋、そして未だ人の気配がない、草の茂った街並を通り過ぎます。この災害はまだ進行形であると、実感させられます。

後半の現地研修は昨年に続き、長崎大学が復興拠点を置く福島県川内村(図1)です。2011年12月から、川内村に拠点をおかれてきた長崎大学の活動は、このプロジェクトのホームページにゆだねるとして、この村についての印象を。

川内村、という名前を知ったのはあの事故から数日後でした。
この研修で存じ上げた遠藤村長のお話です。原発で勤務されていた方が多かった隣の富岡町からは早くも3月11日夜には自主避難者が流入しはじめ、福島第一原発一号機が水素爆発した後の12日早朝には、富岡町長の正式避難受入れ要請があり、川内村は、その人口3,000人の倍以上、最大時には8,000名もの避難者を受け入れられました。続いて3月14日、3号機爆発後、原発20~30Km圏内に屋内退避指示が出たのですが、食料補給その他を考えれば、時間経過からして屋内退避は非現実的と判断し、16日には隣町からの避難者もろ共、全村民の避難を決定。この時、郡山市ビッグパレットを避難先と決められたのは行動開始後の折衝だそうですが、国の30Km圏内居住者への自主避難の呼びかけ3月25日に比し、10日も早かったのです。避難も早かったのですが、その後の村の放射線量の状況と避難村民のストレスを鑑みて、早くも2012年1月31日には、「帰りたい人から村に帰りましょう」との帰村宣言をなされました。現在の人口は2,716人と事故前から300名ほど減少し、さらに完全帰村者は612名、残りの方は避難先との二重生活ですが、一年前に比し、村には活気がありました。避難の決断も帰村の決断もブレがない、遠藤村長の率いる川内村の、復興ではなく、発展を切に願いました。

さて、この川内村のシンボルはモリアオガエルです。
実は、大昔、大阪近郊の山に、このカエルの特徴的な産卵生態を見に行ったことがあります。実際に見たのかどうか記憶は定かにないのですが、通常、カエルは水中に産卵し、おたまじゃくしからカエルになるのに対し、モリアオガエルは陸上の木や草の葉っぱに泡立てた粘液の中に卵塊を産みつけます。

川内村は、このカエルの生息地、そしてそのモリアオガエルの生息地を訊ねたことから、村の長福寺の先代ご住職とのご縁が生まれた詩人草野晋平 -「蛙の詩」が有名-の蔵書を基に設置され天山文庫があります。

さて、今年の研修では、川内村の子どもたちとの交流がありました。
研修生たちの創意工夫によるいくつかの遊びで盛り上がりましたが、にぎやかな輪から離れて眺めていると、大学生が子どもたちを遊ばせているのではなく、大学生が子どもたちに遊んで頂いている趣でもありました。
何はともあれ、ともに楽しいひと時でありました。中には、「来年もきてね!」と子どもたちから勧誘され、是非、また来る!!と勢い込んでいるものもいましたが、研修にご尽力頂いた福島医大、長崎大学、そして地元の皆様にお礼申し上げつつ、来年の再会を祈念しました。

図1 福島県川内村

 

川内村のシンボル”モリアオガエル”

川内村の子どもたちとの交流の様子