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災害における看護師 あるいは看護師と災害

先週2回に続き、もうひとつ「看護」、少し長くなりますがお許しを。
わが国では、この2,3ヵ月の間にも、多数の生命が失われた災害が発生しています。広島での豪雨禍、つい先日の御嶽山の爆発です。一方は気象災害、他は地殻変動に類するものですが、共に比較的局所的かつ災害のインパクト(人間社会へ害を及ぼす程度)は比較的短期間ではありましたが、被災現場での人命喪失は甚大、そしてまだ災害が収まりきらない間にも、警察、消防、自衛隊による体系的な探索救助(search and rescue)が繰り広げられました。
災害!! 「ソレッ!医師ダ看護師ダ!!」と叫ばれた古い時代の災害救援から、現在のそれは素晴らしく効果的効率的、かつ近代的に発展しています。まずは、探索救助です。しかし、どの様な災害であれ、その影響は短時間で解消しません。直接的間接的な多数の被災者への身体的精神的そして社会的支援は必要です。災害発生直後の、いわゆる緊急医療から、被災者が元の生活(正確にはそれに近い状態)に復帰するまでの長い道のりには看護師が担うべき多様な役割があります。
9月末の仙台での「日本財団ホスピスナース研修 in 東北」の2日目は、3.11東北大震災の被災地のひとつ南三陸町訪問でした。あれから3年半、被災地はまだ復興の初期・・でしょうか。果てしない回復への途上にある人々は、しかし、自ら立ち上がり、様々な工夫をなされています。そのような現地を体験するとともに、あの比類ない大災害に立ち向かわれた3人の看護者のお話をうかがう企画を致しました。
常々申していることですが、最も数が多く、最も人々に近い保健専門家である看護師こそ、災害時の力です。看護者が、あの時、何を感じ、どのように立ち向かったか、それを知る機会でもありました。
かつて、「災害」は、しばしば他者の被災として、「何処そこの災害、彼らの被災」と、三人称で語られました。が、災害多発国のわが国では、次第に「あなたの災害」から「私の被災」と一人称になってきました。多数保健医療者も被災者となった阪神淡路大震災(1995)があり、それが契機で、わが国の災害医療は飛躍的に発展しました。今回、最初に、筆舌尽くし難い経験と今に続く重く形容しがたい、看護者であるが故に解消しないであろう想いを吐露して下さったのは、医療法人社団仙石病院の尾形妙子看護部長。地震後、津波から避難中との連絡を最後に、長く行方不明となられたご夫君、令嬢、令息。まだ、消息不明の時期にお目にかかって以来、ご心情を知るすべはありませんでした。母の後を追い、看護師となったあの年、卒業証書を手にしたものの国家試験の結果も聞かぬまま、ほんのわずかの看護も実践することなく去った娘への、看護の先輩としての想い。どうして今まで生きてこられたのか、何故、職務を続けられたのか・・・被災者でありながら看護者であり、管理者であった。看護を学んだが故に、看護者に伝えられる、あるいは伝えねばならないこと・・看護師は何を為すべきで、何を為してはいけないのか、何が可能で、何は不可能か。私情を述べるべきではありませんが、息が詰まる想いで、ご講演を拝聴しました。
東北大震災では、多数の医療施設が壊滅的被害を受けました。その最たるものが、お二人目に講演下さった南三陸町の公立志津川病院星愛子看護部長です。あの災害後、海外でも悲劇的に伝えられたこの病院は、リアス式海岸で有名な美しい志津川湾から約300m余、126床、4階建一部5階の、地域の信頼された医療施設であったはずです。病院前には、1960(昭35)年、南米チリ沿岸の巨大地震がもたらした2.8mの津波を示す表示があり、その経験を基に、病室は3階以上、さらに非常時には患者は4階に搬送など、津波対策マニュアルもあり、訓練もされていました。が、高齢化地域のご多分に漏れず、入院患者の大半は後期高齢者、そして現実に襲ったのは、4階の病室を通り抜けた巨大津波。地震そのものの被災はほとんどなかったにもかかわらず、行動のままならない多数入院患者は、スタッフあげての必死の階上避難の中、迫りくる津波に、数名の職員と共に、文字通り命を洗い去られました。病院たる機能のすべてを失った病院、小雪舞う3月の東北、通信もままならぬ極限の2泊3日。ご自分を、スタッフをどのように鼓舞され、生き延びた患者を護られたか。患者の後方移送、新たな診療所開設と隣町に借りた病院、復興への動き、忖度してはいけないとは思いつつ、どのような3年半であったか・・・今回、改めて、看護者の看護者たる意義を感じさせられました。
最後は、こちらも国際的になった石巻赤十字病院の金愛子副院長/看護部長です。広範な被災地域で、唯一機能し続けただけでなく、地域全体の救援活動のセンターとなり、多分に最後の駆け込み施設でもあった(前職の関係で、ちょっと羽目を外させて頂きますと)我らが石赤病院のケア体制を仕切られた看護者中の看護者です。発災直後、直ちに緊急体制が作動し、トリア-ジエリアの準備・・・とこれはマニュアル通りだったでしょうが、後は、日常繰り返されていた訓練を基に、壮大な応用編をこなされました。臨機応変、良く申せば柔軟、時には管理者としてエイヤァァとのご決断もあったかと思う中、看護部門だけではなく、病院各部との連携のあり方・・・部長独特の目配り気配りとともに、的確な指示のあり方を、流行の言葉で申すならreflectionを含め、解説下さいました。前職での関連で申しますが、金部長のお話は淡々としているのですが、色々なところにピカピカ光る分析、解説そして示唆があります。恐らく同病院関係者は、同じ話を何百回もなさっているかと思いますが、何度うかがってもやっぱり、学びのあるお話でした。昨年、第44回ナイチンゲール記章を受賞され、いっそうご多忙の日々の中、初日夜の懇親会からお付き合い下さいました。夜は同室でやすませて頂くという光栄を得たことも、ちょっと追加させて下さい。
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私事、6回目になる南三陸町。三陸とは、陸奥、陸中、陸南ですが、宮城県は、南三陸金華山国定公園に属します。景勝の地であると共に、黒潮と親潮がぶつかり合う、世界三大漁場のひとつでもあります。
2011年4月に単独訪問後、8月には当時の職場日本赤十字九州国際看護大学の学生ボランティアら80名と訪問した時も、海に船の姿はありませんでした。3年6ヵ月の間の回復は、まず、カキの養殖筏、船影、そして人々の笑顔に感じます。でも、本当のところ、外部者の私には計り知れないものがありましょうし、簡単に判ってはいけないと思っています。
私自身、当時、東京で勤務中でしたが、阪神淡路大震災で、生まれ育った郷里宝塚の200年超の古家がなくなりました。その意味では被災者でもあります。その立場で申しますが、被災現場を物見遊山的に訪れるためらいは誰にでもあります。でも、どの被災地でも良いのです。行って、見て、観て、視て、そして時には、人々に触れ、看て、感じてみることは、多分、看護師であるあなたにとっての災害看護の第一歩ではないでしょうか。
3年半は長いようで短い期間かもしれません。
改めて、東北大震災で亡くなられた方々を悼み、被災された多数の方々、そしてその後の災害の被災者にもお見舞い申し上げます。
懇親会においで下さり、ご挨拶頂いた南三陸町佐藤仁町長、大勢の受け入れに便宜を図って下さったホテル観洋の女将阿部憲子氏にも深謝します。
私どものために、踏み込んだ講演をして下さった3人の看護部長のご健勝を切に祈ります。参加下さった日本財団ホスピスナースネットワークと、日本財団在宅看護センター起業家育成研修生の皆さま、諸々お世話下った担当者、皆々さまありがとう。