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「すべての赤ん坊は、神が未だこの世に絶望していないというメッセージを携えて生まれてくる」 - 詩聖タゴールの言葉

真面目だけど、ある意味、ナイーブ(naive。日本語のナイーブは「感受性ある」とか「繊細な」と、ややいい意味に受け取られていますが、英語では「バカ正直な」とか「無警戒な」といった、大阪弁の「アホやなぁ、この人は・・・」に近い、ややバカにしたような感じで用いられている)な小児科医であった頃の話です。
1960年代末から70年代初頭、つまり団塊世代のジュニアたちが誕生の頃、まだ、現在のような新生児医療は確立しておらず、施設出産が急激に増えつつあった半面、赤ん坊は一人前の入院者としては扱われていない時代でもありました。つまり、新生児をキチンとケアする体制が不備であった頃に、このラビンドラナート・タゴールの言葉-「すべての赤ん坊は、神がまだこの世に絶望していないというメッセージを携えて生まれてくる」にめぐりあいました。
タゴールは、インドはベンガルの名門家庭に生まれた詩人、1913(大正2年)、アジア人として初めてノーベル賞を受けました。ちなみに、その祖国インドの国歌がタゴールの作詞であることは納得ですが、同じベンガル語の隣国バングラデシュの国歌もこの方の作だそうで、2ヵ国の国歌の作者は他には存在しないと思います。
さて、先週から、毎日のように、この言葉を思う日が続きました。
弊財団の主要な活動のひとつはハンセン病対策ですが、財団創設時から、海外活動を主としてきたこと、わが国では、幸い、新たな発病者が出なくなっていることもあって、新米理事長となった後、この病気をめぐる諸事項について、如何に自分が疎かったか、反省しきりの日々を過ごして参りました。加えて、つい先年まで、隔離政策が残ったこともあって、かつての病者つまり現在は回復されている方々の人権や、差別、偏見にかかわる活動もまだまだたくさん残っており、少し、活動の範囲を国内にも向けさせて頂き始めました。ついでに申しますと、小児科臨床医時代、国内での発病者を診察した経験はなく、そのまま無知というより無関心のままで年を重ねてまいりました。今、その状態で、弊財団理事長を務めさせて頂いていることに、とても居心地の悪さを感じています。言い訳がましく申せば、医師としての知識はあったにせよ、めぐり合わないことを理由に、偏見や差別の片棒を担いてきたような気もします。そんなこんな自戒もこめて、今回、理事長として全国13療養所を表敬させて頂くことにしました。
先週から、宮古、沖縄、奄美、鹿児島、熊本を訪問しました。
沖縄愛楽園の「声なき子供たちの碑」、そして星塚敬愛園の「生きたかったでしょう 悔しかったでしょう わたし達も同じ思いです この星塚の地で あなた達のことは 決して忘れません 永遠に・・・」は、ともに、この病気の男女が子どもを持つことを許されず、処置された子どもたちを悼む碑でした。タゴールの言葉と、何と遠いことか!と思いました。
そして、8月6日、ヒロシマの日。
毎年のことですが、2歳で被爆、12歳で白血病で倒れ、鶴を折り続けた佐々木貞子さんのことを思います。私より3年4カ月お若いので、もしご健在なら、孫そしてぼちぼちひ孫様がおいでかもしれない・・・と思うのです。
8月7日、建国以来、対立しているイスラエルとパレスチナ。
数カ月前、パレスチナ人がユダヤ人少年3人を殺害したとして、パレスチナ人が密集して住むガザ地区をユダヤ人が攻撃、そして1カ月です。この日、九州で手にした西日本新聞には「『ママ』と叫ぶ幼い3兄弟。母はいない。悲しみと怒りのガザ」との見出しの下、手足や顔に傷を負うた、オシメの幼児が治療されている写真が出ています。
タゴールさま、この幼児は、神からどんなメッセージを持ってきたのでしょうか?
そして9日、ナガサキの日。
被爆者代表として「平和への誓い」を述べられた城臺美彌子様は私と同年です。98年に生後間もないお孫様を亡くされたそうで、医師からは被爆とは関係がないとの説明を受けられましたが、放射能の影響を疑わずにいられなかったそうです。 70年近くたっても、その呪縛から逃れられない、それが原爆なのだと思いました。TVでも、被爆直後に生まれた方や、幼少時に被爆された方のお話がありました。私と同世代の方々が多いのですが、かつての赤ん坊であった私たちは、いったい、神様からどんなメッセージをあずかってきたのでしょうか。
何時になったら、安らかな世界になるのか・・・重い8月の日々です。