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病、ジェンダー、偏見。ハンセン病回復者・加藤博子さんの作品世界から考える「生きることの尊厳」

「絵と編物でみる 加藤博子の作品世界」を担当した国立ハンセン病資料館・学芸員の吉國元さん

取材:ささへるジャーナル編集部

描くことは、生きること——2025年12月2日に逝去されたハンセン病回復者の加藤博子(かとう・ひろこ)さんは、12歳で療養所に入所後、隔離政策のもとで暮らしながら絵画制作に打ち込みました。その後は編物の技術も身につけ、自らの手で経済的な自立への道を切り拓いていきます。

国が作出・助長した偏見と差別によって夢や進路の選択を大きく制限されながらも、閉ざされた環境や条件のなかで「表現すること」を決して手放さなかった博子さん。彼女の残した作品群は、過酷な現実の中で「生きることの尊厳」をいかに守り抜くかという、現代を生きる私たちにも通じる普遍的な問いを投げかけています。

国立ハンセン病資料館(東京・東村山)で開催中のギャラリー展「絵と編物でみる 加藤博子の作品世界」(外部リンク)を企画した学芸員・吉國元(よしくに・もと)さんに、加藤博子さんの人生と作品に込められた思いを伺いました。

絵画と編物からたどる、加藤博子さんの人生

――ひとりの女性の画家に焦点を当てた展覧会は初めてとのことですが、企画した背景について教えてください。

吉國さん(以下、敬称略):私が2020年に着任してから、博子さんは直接お話を伺うことのできた数少ない入所者のお一人でした。

初めてお会いした際、私自身が美術大学で油絵を学んでいたことを話すと、博子さんは「本当は美術大学に行きたかったけれど、行けなかったんだ」とおっしゃっていました。ハンセン病によって進路や人生の選択肢を奪われた、「人生被害」の重みを突き付けられました。

加藤博子さんとのエピソードについて語る吉國さん

吉國:一方で、「絵があったから、ここまで生きてこられた」とも語られていました。博子さんにとって絵を描くことは“生きること”そのものだったのだと思います。

展示作品の多くは、博子さんご本人から寄贈いただいたものです。本当は生前に展覧会を開催したいという思いもありましたが、それは叶いませんでした。結果として、哀悼の意を込めた展示になりました。

――展覧会はどのような構成になっているのでしょうか。

吉國:展示は、博子さんの人生を「入所」「結婚と社会復帰」「再入所・ハンセン病国賠訴訟を経て」の3つに分けて構成しています。さらに、編物を紹介する「想いを編み込む——加藤博子のニットデザイン」、夫である加藤健(かとう・けん)さんに焦点を当てた「共に生きて——加藤健さん」を加えた、全5セクションから成り立っています。

博子さんは12歳で駿河療養所(静岡県)に入所後、岡山県の長島愛生園内にあった邑久高等学校新良田教室へ進学しました。そこで油絵を本格的に始め、才能を開花させていきます。

今回は、19歳の頃に描き、岡山県展で入選した『海』をはじめ、絵画作品10点、編物作品7点を展示しています。

右側の作品が博子さんが19歳頃に描いた『海』(1962年頃)。描かれた背景に想いを馳せる吉國さん。左側の作品は加藤博子さんの『自画像』(1972年9月)
静岡県に流れる黄瀬川を描いた作品。『黄瀬川』(左/1973年)、『黄瀬川の清流』(右/1972年〜1973年)

――博子さんにとって大切にしていた絵画を、社会復帰に伴って中断せざるを得なかった背景には、どのような現実があったのでしょうか。

吉國:戦時中の1943年にアメリカで治療薬が作られ、日本では戦後の1947年頃にその治療法が導入されたことによって、ハンセン病は「不治の病」ではなくなりました。また、隔離政策は戦後も続いたものの、高度経済成長を背景に、入所者が日中は療養所の外へ出て働く「労務外出」や、退所して療養所の外で暮らす「社会復帰」も可能になっていきます。

博子さんは1964年に療養所で出会った加藤健さんと結婚し、1974年から約15年間にわたって社会復帰を経験しました。ただ、療養所の外で暮らすには、経済的な自立が欠かせませんでした。

工事現場で働く夫が家計を支えるなかで、博子さんは絵画制作を断念せざるを得ませんでした。健さんは博子さんの絵画活動を尊重したものの、そこには、女性は性役割があり、表現活動に集中することができなかった当時の社会的な規範も大きく影響していたでしょう。

博子さんが高校生の頃、叔父から買ってもらったという油彩絵具一式(1959年)

吉國:さらに、博子さんは比較的障がいが重く、松葉杖を使い、手足にもまひや垂手などの障がいがあったといいます。そうしたなかで、「編物ならできるのではないか」と考え、絵画制作を中断して、社会復帰に向けて編物の技術習得に全力を注いだのです。

博子さんは資格を取得し、ささやかながらも静岡県にあった自宅で編物教室を開催しました。その実力はコンペティションで受賞するほどになります。さらに、ファッションショーにも作品が採用されるなど、編物は博子さんにとって社会的にも認められた“仕事”となっていきました。

まるで絵画のようなセーター『午後の風景』(左/1980年代)と『夜の情景』(右/1980年代)。博子さんが見た風景が編み込まれた作品だ
博子さんが使用した『編み棒一式と収納袋』。道具からも生きるための強いエネルギーが伝わってくる

病歴を隠して“社会”で生きることの苦しさ

――療養所に再入所したのはなぜだったのでしょう。

吉國:健さんの健康状態の悪化です。社会復帰をしている間、おふたりはハンセン病の病歴を隠しながら生活を送っていました。隔離政策下でありましたし、ハンセン病に対する偏見と差別を恐れていたからです。

そのため、医療機関を受診することに対しても「病歴が知られてしまうのでは」という恐れがありました。そうしているうちに健さんの喘息の症状が悪化し、博子さんは夫の治療を優先して、療養所への再入所を決断したのです。

再入所から2年後に描かれた『道』は、駿河療養所へ続く林道を描いた作品です。社会復帰前に描かれた作品が、勢いを感じさせるのに対し、『道』はどこか平坦で、感情を抑え込んだようにも見えます。

私には「この道がどこへ続いていくのかわからない」という不安や、隔離の状況が淡々と続いていく感覚を描いているようにも感じられるのです。

駿河療養所へ続く林道を描いた『道』(1990年10月)。画像提供:国立ハンセン病資料館

――博子さんにとって、「絵画」と「編物」は、それぞれどのような意味を持っていたのでしょうか。

吉國:博子さんは、2009年に最初で最後となる個展を開催しました。その案内はがきには「絵はふるさと」と書かれていました。

それは故郷の風景を描いている、という意味ではありません。博子さんにとっては、「絵を描くこと」そのものが、自分の帰る場所だったのですね。はがきには「描いている時も、描いていない時も、絵に助けられた」と書かれています。

2009年に開催された個展の案内はがき

吉國:一方で、編物は趣味ではなく、生活のための仕事でもありました。針に糸を通して縫う洋裁とは異なり、一本の糸から編み上げていく編物は、ほどいて何度でもやり直すことができます。不自由や制約の多い暮らしのなかで、生まれたものが編物作品でした。

編物作品が評価され、ファッション誌に掲載された時も、博子さんは「自分は油彩志望だ」と語っていました。しかし、ハンセン病に対する差別があるなかで、社会的に認められるという経験は彼女にとって大きな支えだったのだと思います。

本展では絵と編物のどちらも彼女の人生を語る上で欠かせない“仕事”であると考えました。

ギャラリー展では、加藤博子さんの作品が掲載されたニットデザイン誌も見ることができる

――博子さんにとって健さんはどんな存在だったのでしょうか。

吉國:今回の展示の最後には、写真家の八重樫信之(やえがし・のぶゆき)さん(※)が撮影したおふたりの写真を展示しています。

※「八重樫信之」は、ハンセン病問題を長く追った写真家。1943年中国長春生まれ。1969年に朝日新聞社・写真部入社。2003年に定年退職し、フリーに。その後、韓国、台湾をはじめ、国内各地で写真展開催。2025年2月1日に死去

八重樫信之さんが撮影した写真『加藤健・博子夫妻』(2017年)。ふたりが手を取り合っている姿が印象的だ

吉國:健さんは、朝鮮にルーツを持つ方でした。健さんは写真に取り組み、写真集も残していますが、自身の出自についてはほとんど語ることがありませんでした。

博子さんは、夫婦として生活するなかで健さんから聞いた経験をもとに、短歌を詠んでいます。今回の展示でいくつか紹介しています。

国の扶余(ふよ)の生母の白木綿(しらきゆう)を永遠(とわのわかれと記憶する夫

吾が死なば韓国に訃すことはなし夫折々に我に話せり

-梅林加津(加藤博子のペンネーム) 「お別れからF車ナンバー イメージetc.⑤」
(『多磨』2016年12月) ※すべて1995年5月に詠まれたもの

日本の療養所への入所を余儀なくされた健さんは、亡くなった後も祖国や家族のもとに帰ることができませんでした。

博子さん自身もまた、出身地については多くを語らず、幼少期に家族と離れて療養所へ入所しました。おふたりには重なる点が多かったことから、博子さんは健さんを「似た境涯の人」と表現しています。

博子さんは短歌だけでなく、健さんの死後には写真集もまとめています。博子さんにとっては、健さんの人生や存在を残すことも、大切な意味を持っていたのだと思います。

半裸の健さんが手紙を書く姿を描いた作品『労働者の夜』(1970年より以前)。画像提供:国立ハンセン病資料館

「共に生きて」という言葉に込めた想い

――本展のテーマの一つである「ものづくりとジェンダー」について、どのような視点を提示したいとお考えでしょうか。

吉國:療養所における文化活動は、入所者の誰もが自由に参加できるものではありませんでした。

多磨全生園には、「絵の会」という絵画サークルの活動がありましたが、女性の参加はありませんでした。女性は洗濯などの家事に追われ、絵を描くことができたとしても、彼女たちはキャンバスや額、絵画展などという枠組みから外れて活動していました。

だからこそなおさら、博子さんの油彩を見ると、彼女が絵を描くために闘い、それを勝ち取ってきた背景があることがわかります。描くための道具にしても、彼女は親戚にお願いして買ってもらわなければならなかったのです。

博子さんが自分のために編んだ『靴下』(左/1980年代)と『青いスカート』(右/1980年代)。靴下は、障がいのあった彼女の足の形に合わせて編まれた
博子さんの技術が集約された『編み方見本帳』。貴重な資料だ

吉國:また、手芸は主に戦前に、女性に課された労働(患者作業)として位置づけられていました。裁縫や洗濯なども含めて、療養所生活の中での性役割として担われていた側面があります。やがて戦後になると、それらは自己実現や生きがいづくりへとつながる「文化活動」としての手芸へと変化していきました。

そのなかで博子さんにとっての編物は、経済的自立のために彼女が選んだ手仕事です。それはいわば、資本主義社会のなかで生きるための術とも言えますが、一方で編物に込められた博子さんらしい感性や健さんへの想いを見ることが大切です。

――改めて、今回の展示を通して伝えたいことは?

吉國:展示の最後のセクションには、「共に生きて」というタイトルをつけましたが、博子さん自身は孤独であった健さんとの関係を「二人ぼっち」と表現していました。

博子さんと健さんは15年の社会復帰を経験しましたが、その間、ハンセン病のことを周囲に明かせない状況がありました。そして、そうした状況をつくってきたのは、私たち社会の側でもあります。

隔離され、社会復帰を経て、再び入所する。そのなかで、博子さんは自分を表現する方法を模索し続け、表現そのものに強く向き合っていったのではないでしょうか。それは、幼少期に隔離された経験とも無関係ではないはずです。

私としては、苛烈なまでの「表現すること」への渇望に、彼女が経験してきた被害の大きさと深さを考えざるを得ません。

夫婦で過ごした駿河療養所から望む民家を描いた『風景』(2007年)
本ギャラリー展のメインビジュアルにも使われた『黄ロングニット』(1980年11月)。両手が抱える胸元の花瓶にはカラフルな花が生けられ、虹がかかっている

吉國:だからこそ博子さんは、短歌や写真集などを通して、自分と健さんが生きた軌跡を残そうとし続けたのではないでしょうか。なぜ生涯を通して「存在を残す」ということに向き合い続けたのか。

博子さんは、多彩な才能を持った表現者でしたが、その表現がどこから生まれてきたのか、その軌跡を考える機会になればと思います。

編集後記

「絵はふるさと」——加藤博子さんが残した言葉の奥にある深い孤独と、それでも決して手放さなかった「生」への強いエネルギーに、取材を通じて何度も胸を打たれました。

病とジェンダーという二重の壁、そして偏見によって人生の選択肢を奪われながらも、自分たちの存在を証明し続けた博子さんと健さん。社会復帰のなかで病歴を隠し、「二人ぼっち」で生きざるを得なかったという事実は、決して過去の悲劇ではありません。

過酷な現実のなかで、博子さんがキャンバスに描き、あるいは毛糸の一目一目に編み込んだ「確かにここに存在した」という切実な証。彼女の表現の軌跡に触れることは、私たち一人ひとりが自分のこととして「生きることの尊厳」を見つめ直す、大切なきっかけになるはずです。

撮影:永西永実

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