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『鬼滅の刃』番外編 井上ウィマラ先生の解説

皆さま!子どものマンガ、アニメと侮ってはいけない、『鬼滅の刃』は壮大な思索の書ですぞ!

と偉そうには申せませんが、私のつたないブログをお読みいただいている中に瞑想研究者、宗教学者井上ウィマラ先生がおいでです。この度、先のブログに対して、何とも奥深いご解説、ご考察をいただきましたので、先生のご了解の下に少し編集してお示しします。【 】は喜多の追記。

 

1.鬼は再生医療やクローニングなどによって永遠に生きたいという欲望を象徴したものであり、それに対して、煉?獄杏寿郎に代表される鬼滅隊の柱(指導者)は、傷つき限りある生命を受容しながら連帯して精いっぱい生きる人間の道を象徴している。つまり、これは限りある人間性を受容して生きることとはどういうことなのかを、鬼との対決を通して表現した物語なのである【・・・全体としてこれが理解できなければならないですぞ。】

『鬼滅の刃』と『スターウォーズ』と対比させ、善悪二元論をどう超えるかという視点から見ると、『鬼滅の刃』は『スターウォーズ』をはるかに超えている、例えば、『スターウォーズ』では、ミディクロリアン(ミトコンドリアのもじり)によるフォースという抽象的表現でしかなかったものが『鬼滅の刃』では、「呼吸による集中」とそれに基づく「型の展開」となり、さらにそれが「神楽」という文化によって伝承されていくことが示されている。【・・・なるほど!】

2.鬼や主人公たちが死んでゆくときに想起する走馬灯のような記憶には、トラウマ的な悲しく不条理な出来事が描かれている。そうした記憶を、主人公の炭治郎がやさしく触れて寄り添ってくれることで、彼らはそれなりの「癒し」を体験して死んで逝ける。また、炭治郎らが修羅場を乗り切る際、必ず幼少期の親とのあたたかな絆が描かれるが、そうした基本的信頼関係が人間力を支えていることが描かれている。すなわち、これは生と死に関する人生観、死生観を描いた物語であり、その中で、私たち日本人が共有する平安時代から先の大戦に至る多くの「集団トラウマ」が癒されてゆくための一途な優しい心の時空が提供されている。だからあらゆる年代の人々が、その人なりに、涙を流して感動し、癒されてしまう。特に、「看取り」体験を積み重ねた人は、この辺の機微に響き合うものを感じ取りやすくなっているのではないかと思う。

3.「全集中の呼吸」と「透き通る世界」は、マインドフルネスのFA(集中力)とOM(観察・洞察力)に相当するものでフローやゾーンの体験を表現している。呼吸に集中することから闘いの型が生まれ、それが「ヒノカミ神楽」に象徴される伝統文化の中に保持されているという構造がある。これは誠心誠意・全身全霊で生きる日本人の生き方が文化の中に継承されていることを表現して日本人としての誇りを満たしてくれている。【・・・と何とも奥深い解析に続いて、以下、具体的な場面での説明】

鬼と人間が何を象徴するかに関しては、映画にもなった「無限列車」の最後で、炎柱煉?獄と上弦の参の猗窩座の対決の場面、第8巻第63話「猗窩座」に象徴的に表現されている。

鬼になって、強くなるために永遠に高め合おうと誘う猗窩座に対して煉獄は「価値観が違う」と断る。そして、猗窩座と互角に渡り合い(第64話「上弦の力・柱の力」、第65話「誰の勝ちか」)、第66話「黎明に散る」での臨終の場面では、炭治郎に向かい最後の会話をする煉獄杏寿郎が、自分が死んだ後を君たちが鬼滅隊を支える柱になることを「信じる」と語るくだりを、映画では炭治郎の瞳に杏寿郎の顔が映った直後に炭治郎の向こうに死んだ杏寿郎の母親の姿が浮かび上がり、その死んだ母親との会話で杏寿郎が「俺はやるべきことをやれたでしょうか?」と問い、母親から「立派にできましたよ」とほほ笑んでもらって笑顔になって命終してゆく。マンガ本にもノベライズ版にも炭治郎の瞳に杏寿郎の顔が映る描写はなく、映画版だけの工夫か?

これはラカン【フランスの精神科医、精神分析学者】の鏡像段階や、ウィニコット【イギリスの小児科医、精神分析家、対象関係論の大家】の「赤ちゃんが最初に自分の顔を見るのは母親の瞳に映った自分の顔を見たときである」という母子観察・発達理論に通じる表現であろう。

臨終の場面に、人生最初期の愛着形成の記憶がよみがえるという素晴らしい死生観です。製作者たちは無意識的に作っているのかもしれないが、この映画にはこうした仕掛けがいっぱい組み込まれている。

この猗窩座がなぜ鬼になってしまったのかという悲話は、炭治郎・水柱 富岡義勇と猗窩座の戦いの最終場面から 第18巻154話「懐古強襲」、第155話「役立たずの狛犬」にかけて語られて、第156話「ありがとう」で猗窩座が、生前に助けることができなかった父親や師範に出会い直し、許嫁であった恋雪に抱きとめられ迎えられて、自ら再生することを辞めて死を受けいれてゆく場面にかけても描かれている。これらはとても心を打つもので、それ故に、鬼の中でも猗窩座を好きな人が多い理由の一つだと思う。

また炭治郎の無意識の世界の広大さと温かさは、第7巻第57話「刀を持て」、第58話「おはよう」にかけて描かれていて、炭治郎の無意識世界にある精神の核を破壊して殺そうとした少年の心の中に、明るく暖かく照らす光の小人として入って癒してしまう・・・これが主人公炭治郎の本領であり、映画でも、とても美しい映像に仕上がっている。【映画、是非、見ます】

炭治郎は、身体能力はすぐれているが、柱ほどのダントツさではない。が、その心はとてもやさしく、彼の無意識の世界が象徴する「無限の温かなやさしさ」の中で鬼たちの悲しい過去も、自然に癒されてしまうのだろう。【だから】私たちは、みんな、こんな明るさと温かさに憧れ、自分の中にあるそれを見つけて勇気をもらうのだろう。

禰豆子が象徴するものは、眠ることによって自我意識の支配下から出て人間としての自然治癒力を全開させ、鬼としての力を、兄を守るために使う役割だろう。そして彼女が、無惨にもできなかった、日光を克服する力【鬼は日光に耐えられないので夜だけ活動する】を得ることは、そうした純粋で一途に兄(家族)を思う力がなした偉業だと思う。(闇から光に出る象徴!!)

炭治郎も最後に鬼になりかけ、さらに最強の鬼の王になる才能を秘めているが、それは彼の無意識の大きさだろう。
また、すべての呼吸の元祖である継国縁壱と、鬼なのに呼吸を使う上弦の壱・黒死牟の物語は、

第20巻第174話「赤い月夜に見た悪夢」

第175話「後生畏るべし」

第176話「侍」

第178話「手を伸ばしても手を伸ばしても」

にかけて語られている。

縁壱と上弦の壱・黒死牟は双子の兄弟であり、弟である縁壱の天才を憎んだ兄の妬みが彼を鬼にしてしまったことが描かれているが、これはクライン【メラニー・クライン。オーストリア精神分析家、児童精神分析専門、前述ラカンに影響した】のenvy<妬み>に関する考察に通じ、また、一神教の「妬む神」に通じるものがあると思う。

その縁壱と主人公炭治郎の先祖との出会いは、

第22巻の無惨と炭治郎たちの最終決戦の物語

第191話「どちらが鬼か」

第192話「廻る縁」

にかけて、無惨を追い詰める「ヒノカミ神楽」という技の因縁に関連して語られるが、そこで神楽という伝統的な技の中に隠されて伝えられる武術の極限的本質があることも描かれている。これは神楽だけではなく、沖縄の浜辺で行われる舞やエイサーに仕組まれた空手の演武にも通じることだとも思う。私たちは祭りの舞や神楽などの動きの中で、武術の本質や戦いの悲しみを癒す動きを繰り返しているのかもしれません。

最後に、鬼が個人的強さに頼って戦うのに対して、鬼滅隊は力を合わせて有機的に戦うことが特徴で、その象徴が鬼の棟梁である無惨は独裁的で口答えを許さないのに対し、鬼滅隊の棟梁 産屋敷耀哉は、誰にも自由に話をさせた上、為すべき道を示し、皆が自然に従ってしまうような声の質を持っている点も忘れたくない・・・今、私たちが必要としている指導者像ではないか?

そんな指導者の下に、いろんな個性を持った柱と呼ばれるリーダーが結束し、みんながそのリーダーの生きざまにあこがれを持って自然に有機体として動ける、そんな組織ができたら、そんな世の中になってくれたらと思ってしまうのですが・・・

【井上ウィマラ先生、ありがとうございます。来週から、2読目に入ります。また、別の感想があれば、書きます】

井上ウィマラ先生

健康科学大学 健康科学部 福祉心理学科 教授