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Chair's Blog 会長ブログ ネコの目

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筑後川・山田堰と中村哲記念碑

2019年12月4日、テツ先生が撃たれた・・・亡くなったと知ったのはロンドンでした。

思えば、それまでの日常と、それ以後は、コロナパンデミックの所為ではなく、私には、何かが激変してしまったと感じています。

雪解け濁流が轟音を立てて爆流する河、緑の片鱗なく、見渡す限り、乾いた大地と彼方にそびえる一本の木もない岩山・・・その地の治水を思いたった中村哲という人のすごさは、面と向かったときの物静かで謙虚な、やや小柄な姿からは判りませんでした。

ペシャワールの日々、接していたテツは、年長の私には、何度か困った顔もみせました。人懐っこく、あまり風采をかまわない、しかし眼光鋭い何者かではありましたが、その後の偉業を思うと、あの日々が夢のように感じられます。そしてその彼を静かに支えてこられた奥方尚子さんと、心豊かに育ったお子さま方を、私はいつも想います。

日本に帰ってから、たまたま、私が福岡で職についたこともあって、時折、話を、相談事をうかがいました。が、考えつくした上、ほぼ決心もして、そして賛意を求めるレベルだったように思います。

先日、福岡県朝倉郡筑前町で、日本財団在宅看護センターを新たに開業した仲間を尋ねました。

「日向ぼっこ」という事務所を開いた小幡順子さんは、実はペシャワール会のメンバーで、私どもの仲間にお入りくださった動機も、昨年、栄えあるナイチンゲール記章を受章された、現在の同会の中心である藤田千代子氏からの紹介でした。

「日向ぼっこ」は、筑前町の真ん中に近い街道に面しています。道の反対側には、地域住民のお名前が記載された隣組的周知版もあって、都会には無くなった地域社会が存在しているように思います。この地で、日本財団在宅ネットワークが、地域のお役に立つことを、きっと、テツも喜んでいると思います。ご活躍を祈念します。

仕事の話が済んだ後、小幡さんが「テツ先生に会いに行きましょう!」と誘って下さいました。
あの筑後川山田堰に設置された顕彰碑・・・です。

比較的狭い国土のわが国では、世界の大河のような長いものはありませんが、暴れ川・・・氾濫を起こす川はあり、それらには人間のような名前が付けられています。関東の利根川は坂東太郎、九州筑後平野を流れる筑後川は筑紫次郎<つくしじろう>、そして四国の吉野川は四国三郎です。その筑紫次郎こと筑後川は、その昔、氾濫もありましたが、比較的大河なのに、筑後平野の農民には恩恵が少なく、渇水に苦しんだそうです。中村哲と同じく九大医学部卒の精神科医でもある帚木蓬生の『水神』は、江戸時代の渇水に苦しむ貧農と治水にかける5人の庄屋の物語ですが、繰り返し読んでも、クナール川と中村哲を思わずにはおられません。

山田堰・・・2000年代の早い時期、テツ先生と会う機会がありました。
「ヤマダゼキ・・・について調べてくれんと・・・」と云われました。当時の職場には、福岡県関係の事務幹部がいましたので相談しましたところ、博多駅近くの国土交通省九州地方整備局を教えられました。整備局では、「筑後川河川事務所」を教えられ、テツ先生に連絡した記憶があります。

筑前町「日向ぼっこ」から、かつてテツも座ったという小幡さんの車の助手席に座り、小一時間、私は山田堰に向かいました。

山田堰は、筑後川が少しうねった位置、国道386号と588号線が合流し大きくカーブするところ、道の北側からは西暦661(斉明7)年建立の恵蘇八幡神社の壮大な楠が、南側からは、山田堰をお守りする水神社の同じく壮大な楠が国道を覆う地点にあります。

地元朝倉ロータリークラブが設置したという中村哲記念碑は、その水神社の中にありました。
テツ先生がよく揮毫された「照一隅」を記した碑と、そのお顔とこの地で詠まれたとされる「濁流に沃野夢見る河童かな」が彫られたメインの碑があります。

穏やかな冬の午後、私たち以外に人影はなく、水面では多数の水鳥・・・鴨でしょうか、がたむろし、時に静かに水面を漂っていました。私たちは、言葉を交わすこともなく、静かに流れる筑紫次郎を眺めました。そして、ここを訪れた時、対岸の階段状の護岸に座って、長い時間、考えていたとの小幡さんの言葉を待つまでもなく、洗いざらしの作業着に愛用のチトラールハットを冠ったテツが見えました。

私は何度も何度も何百回も、何千回も、何万回も問いたい・・・
「なぜ、なぜ、なぜ・・・あなたは死んでしまったの!!」と。

世界は複雑になるばかり・・・一体、私たちは何を学習してきたのでしょうか?
アフガンの子どもたちも、日本の子どもたちも、ミャンマーも、新疆省も、エチオピアの子どもたちにも、私たちは何を残せるでしょうか?