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関門海峡と「彦島」

所用で下関に参りました。

非業の死を遂げられた安倍総理の郷里でもありますが、ここ、かつての長州は、日本が近代的な政治というか、国家、行政体制を構築してゆく際に、活躍した人々を多数輩出した土地だと思っています。幕末!!学生時代、あまり日本史を学ばなかったのですが、年を取って、卑弥呼時代から幕末の歴史をよく読むようになりました。とりわけ、武力でなく、学問的に先見性のある積極的人材育成を行った吉田松陰に熱中した時期もありますが、ここ長州は、やはり近代日本のルーツのひとつだと思っています。業務の合間に、最近まで、地元で要職に就いておられた方にお目にかかり、関門海峡にかかわる興味深いお話も承りました。

関門海峡といっても、現在ではJR新幹線のトンネルか高速道路の関門橋を走り抜けますので、あまり海峡を意識することはないです。が、地上に立って、割合近い距離を、巨大な船舶・・・すべて貨物船のようです・・・が、結構なスピードで滑るように移動しているのを眺めると、この海峡の潮の流れの勢い、早さが実感されるとともに、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島とか、平家滅亡のロマンが残る壇之浦とか・・・ちょっとした観光気分にもなりました。

かつての職場は対岸九州福岡県でした。日本の近代化を、最初は、石炭、ついで鉄、そして現在は自動車産業と工業的に牽引してきた北九州市から眺めた海峡と、今回、山口県下関側から眺めた歴史的想いのそれは少し異なりました。どちらかと申せば、かつて馬関海峡(現下関市の旧称馬関とかつての門司から)と呼ばれていた方がしっくりくる感じでした。

ホテルの窓からは、海峡を見おろせる観覧車や遊覧あるいは近くの島に到るのでしょうか、小型船が係留されているのが見えました。夕闇が迫る中、イルミネーションの輝くその観覧車の彼方に、彦島が位置するとうかがい、「歴史にモシはない・・・」と申しますが、そのモシが起こっていたら、今の日本はどうだったかしらと想像をめぐらせました。

徳川時代の最後、騒然とした幕末の日本。その頃、歴史の表に天皇が色濃く見えたように思いますが、時の孝明天皇(在位1846.3.10〈弘化3年2月13日〉-1867.1.30〈慶応2年12月25日〉)が14代将軍徳川家茂(在任1859-1866)に攘夷〈幕末の、外国との交流通商反対、外国勢を撃退排除し鎖国をまもろうとする思想〉の実践を迫られたそうです。既に、江戸幕府の威信が相当ぐらついていた頃です。薩長土肥など、今風に申せば、各地のリベラル大名たちやその配下の、さらに先鋭な考えを持つ若者たちが各種各様に動いていました。坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、もちろん西郷隆盛や勝海舟・・・TVドラマの主人公として、皆、イメージがおありでしょうか?もっとも当時の攘夷運動は、必ずしも軍事的ではなかったようですが、長州・・・つまり現下関あたりでは、当時の馬関海峡を通過する外国船を砲撃しようとしたと云います。武器を持ったら撃ちたくなる??

1863年(文久3)年5月、長州藩は馬関海峡を封鎖し、航行しようとするアメリカ・フランス・オランダの艦船を砲撃しました。それも無通告で!!翌月、アメリカとフランスの軍艦が海峡に停泊中の長州の軍艦を砲撃し返します。内外の武力は、おそらく大人と赤ん坊ほど差があった当時、長州側は壊滅します。が、意気軒高な長州人は、砲台を修復し、九州側小倉藩領にも砲台を建造し、さらに海峡封鎖を続けます。が、翌1864(元治元)年8月には、大英帝国の呼びかけで、アメリカ、フランス、オランダあわせて17隻もの大艦隊が報復攻撃に参ります。現在の下関や、砲台があった「彦島」は徹底的に砲撃され、陸戦隊が上陸占拠したそうです。下関戦争とか馬関戦争とよばれる「事件」です。

無謀な砲撃を起こし、逆に破滅し、賠償を求められたにもかかわらず、長州藩は攘夷・・・幕命であるとの主張を突っ張り、米英仏蘭4ヵ国に対する損害賠償も幕府に押し付けたそうです。すごい交渉力ですが、もし勝っていたら、それは長州の手柄としたなら、何と戦略的能力の高いことでしょうか?

が、この壊滅的敗北によって、海外列強と武力闘争をすることの無謀さを理解した長州藩は、当時の先進国からの知識や技術の移入に舵を切ります。さらに、当時の都、天皇のおいでになった京都でも問題を起こしていた長州人は、これらの状況を経験した後、急激に方向を改め、ちょっともめていた薩摩藩とも、いわゆる薩長同盟に踏み切ります。1866(慶応2)年1月21日です。1868年の明治維新は、もう目の前です。ちなみに、私の祖々父(ひい爺様)は慶応年生まれ・・・そう思うと、明治維新も身近です。

ところで、その「彦島」です。
島と名前がついていますが、実は陸続き、本州の西の端っこです。上記下関戦争で、外国勢に占領された「彦島」を当時の大英帝国が「『租借地』として貸せ!」と要求したらしい、それを突っぱねたのが高杉晋作である・・・という話です。

この経緯には、そんな話はなかった、藩主から「やむなし」と聞いていた伊藤博文が高杉に伝えなかった、そもそもそんな申し入れはなかった・・・などなどのウワサ、伝承があるそうです。

租借地とはある国が他国に一定期間貸し与える土地を申します。問題?は、ある国の土地ではありますが、貸与期間中の実際の管理統治権限 立法・行政・司法の権限が借りた国に移ることです。ある国の中に、ことなる立法・行政・司法権をもつ外国があることになります。そして、本来は借りるのですから、租借料が払われるべきなのに、実際には払われないことがほとんど・・・つまり、戦争などで勝った側が借りた場合は・・・大概は借りっぱなし、なのです。日清戦争後のわが国を含む列強が、当時の清朝中国の、特に海岸部に沢山の租借地を作りました。作る側の思いと、作られる側の想いが一致することなどありえないですね。

現在も租借地はあります。ロシアの侵略にさらされているウクライナの南部、黒海に突き出たクリミア半島のセヴァストポリ・・・クリミア戦争時に現地に入ったナイチンゲールの関与した土地ですが、この地の軍港は、2014年に半島一帯をロシアが併合するまでは、ロシアの租借地でした。

もし・・・馬関戦争後、明治維新に先立つ数年、大英帝国の租借地が、関門海峡に突き出た山口県の最西端にできていたら、その後の日本の歴史はどうなっていたでしょうか?明治維新の経過もどうだったか、第一次世界大戦への日本の関与は大きくはありませんが、恐らく、何か変化はあったでしょう。
そして第二次世界大戦への経過はどうだったでしょうか?
そして、そして租借地化された地域を持った日本という国は、いったい、どんな風に20世紀を経過したでしょうか?

租借地ではありませんが、今も基地が存在する沖縄を想いました。
夕闇迫る関門海峡を大きな貨物船と小さな漁船でしょうか、行き交っていました。