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郡上おどり、ユネスコ無形文化遺産に登録決定!郡上八幡の思い出

日本時間の2022年11月30日、国連教育科学文化機関(UNESCO United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization ユネスコ)が、岐阜県郡上市の「郡上踊」と「寒水の掛踊」を含む日本の民俗芸能「風流踊」を無形文化遺産に登録すると発表しました。

前日、わが国が提案していた盆踊りなど、お囃子にあわせて人々が踊る民族芸能「風流踊」についての審議をおこなったユネスコの政府間委員会が無形文化遺産への登録を全会一致で決めたのです。(NHK NEWS 2022年12月2日)
わが国の伝統的民族的文化が世界的に認知されることは素晴らしいことですが、それにもまして、気象異変、災害、紛争・戦争・・・何やら分断ばかりの世界のなかで、わが国からは人々の融和を象徴するお祭りのニュースです。

その郡上八幡(グジョウハチマン)!!
懐かしい街です。今から60年程前、私ども一家は、偶然、この街にたどり着き、そして予定になかった滞在を2晩もしたことがあります。

当時、車が好きで、イギリスのスポーツカーMGの中古や、当時のニューモデルだったのかもしれませんが、ヘッドライトが前輪の上のボンネットの上にあったクラシックなベンツを入手して悦に入っていた父の意向で、毎夏、数日の一家自動車旅行を楽しみました。その年は、北陸へ向かい、一家の宗旨である禅宗の一派曹洞宗の大本山永平寺をお参りした後、白山信仰の街岐阜の白鳥町(シロトリチョウ)を訪れました。その後、どこで道を間違ったのか、やや険しい山道となりました。当時、車はほとんど走っておらず、道は続いていたので、はらはらしながらも、父は凸凹の山道を数時間運転し続け、やっと辿りついたのが終夜の盆踊りの郡上八幡でした。街にたどり着いてホッとしましたが、これも、今では考えられないことですが、宿を求めると、古い町並みの中に風格のある一軒が見つかりました。

実は、私、音痴ですが踊りは大好き!後々、あちこちの盆踊り踏破も致しましたが、当時、郡上おどりは存じませんでした。食事を頂きながら、流れてくるお囃子にソワソワしますと、宿の女将が、「朝までやってるから心配しないの!それに夏中踊れるから・・・」と教えて下さいました。そして食後に、宿のベテラン踊り手ドノを師匠に手ほどきを受けました。レッスン・ワンは「春駒」という踊り、これは単調なしぐさの繰り返しなので軽くパス、その次も比較的難なく覚えられました。もちろん、格好よくではありませんが、踊りの流れを乱さないという程度でのパスでした。が、三つ目はちょっと難儀でした。何とか覚えたのですが、「師匠」は、「あなたは三つ目で終わり・・・それ以上は無理。踊らないこと!」と厳命。

そんなこんなで、もう一泊するとともに、それほど観光地化していなかった頃の郡上八幡の街を堪能しました。私自身は、医師になった後も、数年間、毎年ではありませんでしたが、この街の盆踊りに通いました。

後々ですが、群上おどりの際のお囃子、郡上節と総称される中には、「かわさき」、「春駒」、「三百」、「ヤッチク」、「古調かわさき」、「げんげんばらばら」、「さわぎ」、「甚句」、「まつさか」に加えて、なんと「猫の子」というのがあるのです。子猫ではなく、「猫の子」です。そして、拍子木と歌のみの「まつかさ」が最後、拍子木の合図が最後、そして歌い手は拍子木を懐に入れてお帰りになり、踊りも終わりとなる次第。私としては、何としても、「猫の子」を修得しなければなりませんね。

現在、八幡市となっている「グジョウハチマン」地区は、郡上八幡城を中心とした城下町、戦国時代末期の永禄2(1559)年、遠藤敦盛が陣を置いたことから遠藤一族が街を広げ、江戸時代に大改修を行い、山城の代表となったそうです。翌日、散策した街はそれほど大きくはなく、どちらかといえばこじんまりしていましたが、歴史を感じさせる建物や、今では「宗祇水」と呼ぶ日本百名水の湧く地、街の中の疎水には鯉が泳いでいて、山口県の津和野とも似た、しかし中部地方の深い山並みの、濃い緑の中の真珠のような街でした。漢字だったか、平仮名だったか、記憶はあいまいですが、「澤瀉屋」というお店で、母が紬の反物を求めました。「あなたがオヨメに行くときには仕立てて・・・」との母も願望をかなえないままですが・・・

これも、その時はぼんやりうかがった江戸時代の宝暦年間(1751~1764、9代将軍家重、10代家治時代)の郡上一揆を忘れることはできません。江戸時代の地方の農民一揆ながら、藩主が変わり、中央幕府の高官多数が罷免されるまでに至った、ちょっとしたクーデター的騒擾によって、多数の農民や地域の指導者が亡くなった・・・その弔いと地域住民の融和のために、郡上踊りが生まれたとの説もあるとうかがったように思いますが、同様の説明(「郡上一揆」wikipediaより)がありました。

紛争地に勤務した際、何か、お祭り様の行事があるところの紛争は長続きしない印象を持っています。

今もウクライナでは、銃声がとどろき、砲弾とミサイルがさく裂しています。
21世紀の現在、十分以上に知識を修得したはずの人間、それも一国の為政者ともなる方々は、当然、大多数の国民よりも多くの経験と知識を持っておられるはずなのに、何故、こんな不毛の戦いを続ける指示を出し続けるのでしょうか?

郡上八幡は、中世の終わり近く、壮絶な一揆の後、美しい文化の街に成り代われたのです。確か、お寺がたくさんあったのも関係があるのでしょうか?

ユネスコ無形文化財に認定されると、訪問者は増えるでしょうけれども、来夏には、「ハルコマ、ハルコマ・・・」をもう一度、踊りに・・・・もちろん「猫の子」も。