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Chair's Blog 会長ブログ ネコの目

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山田方谷をご存じですか?

令和5(2023)年度の日本の国家予算は114兆3,812億円です。が、2022年度末の普通国債残高は1,029兆円、GDP(Gross Domestic Product/国内総生産:1年間など一定期間内に国内で産出される付加価値の総額。国の経済活動状況を示す)に対し、総額どれくらい借金があるかを見ますと、何とわが国の債務残高は国の産出総額GDPの2倍以上です。主要先進国中、ずば抜けて高い・・・嘆かわしい状態と云ってもよいかと思います。

備後〈ビンゴ〉、備中〈ビッチュウ〉、備前〈ビゼン〉、すなわち現在の岡山の中ほど、備中松山藩に、知る人ぞ知る儒学者(東洋哲学者)、経済学者で教育者の山田方谷という方がおられました。

方谷は、私にとって三つ目の岡山県、すなわち備前備中備後との因縁です。

その備中松山藩は、現在の高梁市にあったのですが、明治維新後、四国の伊予松山藩と混同しないように高梁藩〈タカハシハン〉と改名させられました。なぜ、四国が名前を変えずに、こちらが変えたのでしょうね?この藩、よく知られる赤穂浪士の浅野家ともちょっと関係するなど、色々興味深い変遷がありますが、1744(延享元)年、伊勢亀山藩から板倉勝澄が入封(ニュウホウ)し5万石の大名となり、明治維新まで板倉所領でした。

さて250年の鎖国、しかし雅な文化を育んだ日本ですが、外国からの「しつっこい」関与の末、開国に舵をきりました。その頃・・・つまり幕末の松山藩は、聡明な第7代藩主板倉勝静〈カツキヨ〉をいだいていました。この方、東北の陸奥白川藩主松平定永の8男!!だったそうですが、1842(天保13)年、第6代松山藩主板倉勝職〈カツツネ〉の婿養子となられます。派手なことがお好きだった勝職ドノの時代は、以前からの借金もあり、藩財政はひっ迫したのですが、婿養子のお殿サマはとても聡明で、松山藩につかえる儒学者、経済学者、教育家の山田方谷を重用し、短期間に藩の財務立て直しを成し遂げられました。借金だらけの現在の日本にいて欲しい・・・・と私は思います。

山田方谷 http://takahasikanko.or.jp/modules/spot/index.php?content_id=27

方谷は、農家で菜種油を商っていた町の商家の出ですが、ややこしいいきさつがあった家を再興したいご両親は、方谷は学問で身を立て、社会に役立つべきとお考えの教育ママパパのようでした。で、ご両親亡き後、家業を継ぎますが学問は止めません。そしてその令名を知った藩主に取り立てられ、最初は二人扶持〈ニニンブチ〉という多少の俸給を頂き、やがて苗字帯刀を許され、士分(=武士)となり、藩の重要な役職にもつきました。

ただ、近年の方谷再認識は、単に賢かったからでも、お殿様に認められ、偉くなったからでもありません。方谷という人の生きざま、考え方、世間、人々への尽くし方、藩という地域社会の成り立ちを鳥瞰して、社会をどう動かすかを、一市民ながら、着実に確実に実践し、結果を出したからだと私は思います。確かに、膨大な借金まみれの藩財政の立て直しを、お殿様のバックアップはあったにしても、まず質素倹約を役人にも町人にも納得させただけでなく、長年、大枚の借金をしてきた大坂難波の豪商たちにも、必ず返済はする、がしばし待って欲しいとお願いした・・・それを金貸し商人がきくとは思わないのですが、それをやって遂げたのが方谷の人格なのでしょうか。とにもかくにも、人々との関係は尋常でない、本当の人たらしでしょうか。借金返済、藩の立て直しを予定よりも早く、見事にやり遂げ、それだけでなく、藩校有終館の先生となり、多数の門人、若者を育てています。

この方谷を主人公にした澤田瞳子氏による『孤城 春たり』が、山陽新聞に連載されています。そして、NHKの大河ドラマになるとかならないとか・・・

最初に書きましたが、私の岡山県とのご縁は三つ目です。
最初は、1991年、世界の公衆衛生/パブリック・ヘルスをリードするジョンズホプキンス大学公衆衛生大学院に学んだことで、岡山大学名誉教授青山英康先生の知遇を得たことです。数年間、先生の命令により、午後は学部、夕方は大学院の講義に参りました。それが、現在の笹川保健財団での在宅/訪問看護事業を起業・継続する方々の支援につながります。二つ目のご縁は、笹川良一翁によりハンセン病対策のために設立された笹川保健財団(当時 笹川記念保健協力財団)にやとわれたことで、岡山県瀬戸市にある二つの国立ハンセン病療養所―長島愛生園と邑久光明園とのご縁が生まれました。その昔、医学生の頃、魚臭い小さな漁船に乗せてもらって、まだ、長島大橋のなかった「島」に渡ったことを思い出します。

そして最後のご縁が方谷です。
数年前、山田方谷第六代直系ご子孫であられる野島透氏にお目にかりました。それは、第一の岡山とのご縁であったパブリック・ヘルスに地域保健を加味した集まりではありましたが、歴史上の人物のDNAを持たれた方とお話する・・・少し、異な感もありました。かつて財務官僚であられたことこそ、方谷のご子孫なのかと変に納得したのですが、何度かお目にかかっているうちに、幕末から明治、そして大正から第二次世界大戦までにあった、日本古来のものの観方を、もっと知りたいと思っていたこともあって、方谷や板倉藩を調べました。

https://www.sanyonews.jp/article/1384535

昨日、2023年4月8日、「方谷読書会」・・・備中、岡山県そして方谷にご縁ある、ご高名な方々のお集まりに招いて頂きました。6世ご子孫とのご縁でした。

幼少時、朱子学を学び、長じて、それに懐疑をもち、陽明学を学び、後には、近代化は必至と考え、西洋砲術や武器製造、アメリカからの軍艦としても使える船の購入、兵士養成にも関心を持ったという山田方谷は、単に農村地域の安寧だけを目指していたのではなく、国際を視野にしていたのでしょう。

江戸幕府直轄の学問所昌平黌〈ショウヘイコウ〉を率いた佐藤一斎門下では、佐久間象山と共に「佐(藤)門(下)」の二傑とされた山田方谷です。お殿様に認められた後も、最初は、藩校の校長でしたから、私は、経済学者というより教育者と思えます。

方谷は、同じく幕末の改革者吉田松陰と同じように、門人には武家出身者だけでなく、町人も含めています。平等、公正の考えが身についておられたのでしょう。

藩財政の立て直しには、率先し、華美を廃し、節約に努めています。今時なら、誰が従うか?などと云われそうな「倹約令」を発します。期間を区切ってはありますが、全藩士の俸禄・・・給料を減じ、「身分ごと」に着用する衣服・装飾品に制限を加え、絹・金を用いた品々は使用禁止。第二次世界大戦時、「贅沢は敵だ!」とされたことをチラと思いましたが、それ以上に、すごいのは、お役人には当たり前だったようですが、藩の住民から賄賂や接待を受けることは厳禁!と。

そして方谷のすごいことは、ある種の情報開示です。財政立て直しの最初、そもそも、藩はどれほどひどい借金漬けか、調査報告書をお殿様と上層部にも、ついで恥をさらすようですが、大坂の豪商にも見せて、借金返済を10~50年待って欲しい、その間、藩は産業を興し利益を上げる。
必ず!借金は返すと、理路整然と説明した・・・情報開示、産業振興、論理的説明、近代的です。

明治維新が迫ってくる幕末頃、松山藩主勝静〈カツキヨ〉や方谷の活動は、また、また、色々です。

昨日の会には、方谷6世子孫野島透氏とともに、備中松山藩板倉家19代目ご当主、つまりお殿様!!もご参加でした。ちょっとミーハー、悪趣味ですが、色々とうかがいました。昔昔・・・でも、私の祖々父は慶応2(1866)年生まれ、それほど昔の話ではないのです。でもわが国の借金を思えば、方谷やお殿様を待つまでもなく、私たち個々人が考えねば・・・