JP / EN

Chair's Blog 会長ブログ ネコの目

猫イメージ

備中松山城のネコ殿さま 「さんじゅーろー」

先に、幕末の備中松山藩の破綻した藩経済を立て直した儒学者/哲学者にして経済学者、そして教育家であった山田方谷を書かせて頂きました。

とても言い訳がましく、偉大な山田方谷にも、その六世直系ご子孫であられる野島透氏にも、申し訳ないのですが、数年前、野島氏にご縁が出来ました時には「山田方谷・・・ムムム・・・」でしたが、高梁市・・・備中松山藩・・・松山城・・・オオ!ネコ殿さま!さんじゅーろードノ!!と思ったのでした。

備中松山城 城主 さんじゅーろー(高梁市産業経済部観光課長相原英夫さまよりご提供)

先週末、東京での方谷読書会にお招き頂きました。当たり前ですが、周りのお歴々は、皆さま、高梁市、備中松山藩のご関係者、19世板倉家ご当主―すなわち本物のお殿様もおいででした・・・首都圏ご在住の殿は参勤交代で江戸屋敷詰め、さんじゅーろードノは本家の留守居・・・でしょうか。

松山城がよく知られているのは、日本百名城のひとつ、そして本物の天守が残っている12の城のひとつであることに加え、その中でも、唯一の山城であること、さらに有名な雲海です。特記すべきことが、ネコ殿さんじゅ―ろーです。

で、日本にはいくつお城があったのか、現在もあるのでしょうか?ちょっと調べました!が、正解は? 何と「お城」の定義が決まっていないのですって。砦や、突発の戦さ用に急遽構築した陣(小さな城)、お寺や神社が戦用に土塀・土塁や石垣で囲まれお城とされたものなどなど、最大数は数万ともされているそうです。大昔、私が学んだ大阪学芸大学(現大阪教育大学)付属池田中学校は池田城の跡でしたので、ちょっとググってみました。

(高梁市産業経済部観光課長相原英夫さまよりご提供)

なんと、この城は1334(建武元)年頃、現池田市五月山麓に、地域の豪族池田教依が築いたとか、建武の中興とか、歴史を学びながら、なんとうかつだったことでしょう。確かお堀の底らしきところがテニスコートでしたが、東と南に最大幅25.7m、深さ6.5mの堀があったとウィキペディアにありました。さらに、最初の落城が応仁の乱(時は室町時代、応仁元〈1467〉年~文明9〈1477〉年に至る内乱)だそうで、無邪気に遊んでいたのが、足利将軍家の存亡をめぐり、時の二大大名細川勝元と山名宗全の激突があったかもしれない地だったのです。

閑話休題。備中松山城は、4峰からなる臥牛山系(最高峰は標高487m)に構築され、本丸は海抜430mの小松山山頂に残っているのです。城下町から1時間以上もテクテク歩くのだそうで、もちろん車の便はありましょうが・・・市の観光課長によりますと、最終的な登山路は20分程度とか、やはり、ちょっとためらいます。

いずれにせよ、このお城、明治維新来、昭和の代まで、長く放置されていたのを、昭和のはじめ、高梁中学校の先生が調査、詳細な記録を『備中松山城及其城下』として刊行され、修復が始まったそうです。最初の修復予算1万8,000円・・・今の貨幣価値とは異なりことなりますが・・・で、当時の国宝保存法に基づき国宝(旧国宝、現行法では「重要文化財」)指定を受けたのです。

その後、1950(昭25)年には重要文化財、1956(昭31)年には、城跡が国の史跡に指定されています。
さらにその後も整備復元され、2006(平18)年には日本名城100選に入ったのです。

では、現城主 さんじゅーろードノはいつから??

今では全国的・・・海外でも知られているネコ殿さま さんじゅーろーは、2018年(平成30年)6月28日から7月8日にかけて、西日本を中心に広域を襲い、死者263名、行方不明8名、負傷者484名という大災害だった「平成30年豪雨」禍の直後、お城の三の丸付近に現れたそうです。オス・・・お殿様ですから、ね。当時推定3歳。若殿様でした。お名前の由来は、松山藩藩士、新選組七番組の組長谷三十郎に由来するそうですが、板倉家何代のお殿様XXドノにちなむべきではなかったかと、私は思っています。が、まずはその年12月に備中松山城PR大使に任命され・・・って、お殿様をこき使って・・・

2020年6月には、観光客数増と高梁市観光を盛り上げた功から、公益社団法人岡山県観光連盟の令和2年度観光事業功労者表彰を受けています。ま、まだ、大使でしたからね。ネットにたくさんの写真が出はじめ、私も「観に行かなくっちゃ!」と思いました。各地の有名ネコ、和歌山電鉄貴志川線の有名なたま駅長、もう二代目ですが・・・尾道の美術館に侵入を試みているネコちゃん・・・あちらこちらに、ネコの手を活用した観光が・・・コロナで、少し静まっていますが。

さんじゅ―ろーの、そもそもの生い立ちは不明だそうですが、保護猫団体から高梁市在住のご一家に、「なつめ」という名前で迎えられ、豪雨の際に脱走し、約3ヶ月後、備中松山城三の丸付近で保護され、一時、「ご家老さま」だったそうです。が、徐々に、「城主化」し名士化し、マスコミにも知られるようになった・・・元の飼い主とは再会したものの、既に「猫城主」としてのお役目もあり、移譲されたそうです。そして、一時脱走した後、再度、城に戻った際「猫城主さんじゅーろー 再入城の儀」が執り行われ、正式に「猫城主」として就任したって、お殿様のお帰りを、何と思っているのでしょうか!

現在は、城内本丸にある管理事務所に常駐、午前午後に、お見回りだそうです。
何としても、殿に拝謁したいので、ます、20分の山歩きに耐える体力作りから始めます。
「殿ぉぉお、しばしお待ちを!」