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Chair's Blog 会長ブログ ネコの目

猫イメージ

国境の島 対馬を尋ねて その1

新型コロナウイルスによる感染症は、わが国では、その発生以来3年4カ月後の5月8日に、感染症法上の位置づけが季節性インフルエンザなどと同じ5類に移行すると厚生労働省が発表しています。が、それはあくまで、私ども人間が、社会の仕組みや人々の動き、そしてウイルスの動きを勘案して決定したことで、ウイルス君は、制度がどうなろうと、相変わらず、私たち人類の間を渡り歩き、そして生き延びるにふさわしい変性を続けるでしょう。連休もなく・・・・

皆さまも、制度上の変化に関わらず、これまで同様、必要な予防体制をお取りなさいますように。ただし、そうは申しても、この新参ウイルスも、過去3年以上、世界各地で人類に馴染んできたこと、私たちも、繰り返し、ワクチンを受けたこと、さらにわが国で申せば、大概の地域で過半数以上の人々にある程度の抗体が生じていることから、新型という名も手あかがついたこのウイルスを、むやみに怖がらず、適切な予防行為のもと、賢く対応すればよいのでしょう。

さてさて、私は、4月末、長年念願していた対馬にまいりました。

ツシマ!

ネコ好きの私故、スワ!ネコを観にと思し召しでしょうが、そうではありません。2、3の別の想いからです。とは申せ、言い訳がましいですが、お世話になった現地の方が、「対馬野生生物保護センター」にご案内下さいました。そうです。対馬に独特の生物を保護研究するための施設ですから、その中の一種として、もちろん、ツシマヤマネコもいました!

現在、一般公開ヤマネコの役割を相務めている四代目は、2015年4月13日に、福岡市動物園で生まれた「かなた」君。福岡県在住時、何度か、同動物園にまいりました。もちろん、日本で一番沢山のツシマヤマネコを飼育している施設ですから、何時でも、2,3匹?ツシマヤマネコは野獣ですから2,3頭というべきでしょうか・・・姿を見ることができました。

ネコの話はさておいて・・・・

4代目ツシマヤマネコのカナタ君

対馬(ツシマ)は日本海・・玄界灘に位置します。朝鮮半島最南端までたった49.5Km、九州本土までは132Km、隣国韓国にとても近い国境の島です。国土交通省国土地理院の、本年2月28日発表では、わが国の島を一定条件下に数えると、なんと14,125島もあるそうです。

最大は本州ですが、対馬島は10位の大きさ、約700平方キロメートルですが、何とその89%が山地…実際、島の2/3に相当する道路を走りましたが、本当に山・山・山・・・でした。厳しいリアス式の海岸線、入り組んだ湾の奥に存在する集落、景色は抜群でしたが、かつての生活の厳しさも思われました。

司馬遼太郎の街道をゆくシリーズの『壱岐・対馬の道』には、かつては水田がなくコメの移送が一大仕事だったように書かれていましたが、今は、相当数の水田が見受けられ、そして早くも田植えの為の水張りが始まっているところもありました。が、むしろ1960年代には7万人に迫っていた人口は現在3万強、休耕田畑らしき叢が散在していることがとても気になりました。

ついでに申しますと、対馬の主島は対馬島ですが、他に有人5島(海栗島、泊島、赤島、沖ノ島、鳥山島)ほか、無人の102島からなるそうです。かつて、福岡県在住時、壱岐の公立病院改革に関与させて頂いたことがございました。何となく、福岡に近く、福岡県・・・と思っていた壱岐も対馬も行政上は長崎県に所属しています。ちょっと不遜な言い方ですが、アフリカや中東、アフガニスタンとパキスタンなど、かつて西欧列強が支配した国々の国境線が人工的に引かれたことで、民族が二分されていることを思い出したりしたものです。対馬でも、現在、やはり福岡に親和性があるようですが、プロペラ機で、福岡‐対馬間30分、長崎‐対馬間35分です。次回は、長崎空港から飛んでみようと思っています。

さて、その対馬、和銅5(712)年に編纂された日本最古の書 『古事記』にも、その8年後の養老4(720)年に完成した『日本書紀』にもツシマの記載があるので、日本が成立した太古から知られた土地だと申せましょう。それはそのはず、大昔から、アジア大陸との交流の中継地として、人や物、文化や言葉が行き交っただけでなく、しばしば紛争に巻き込まれています。現在の流行〈はやり〉言葉で申せば、地政学的に注目されてきた地でした。

まず紛争から記載するのは気に染まないことですが、今回の訪問に際して、この地の歴史をなぞりますと、確かに、戦〈イクサ〉まみれの歴史に気づきます。

古くは、白村江の戦(663)です。ハクスキノエと読みますが、倭国の時代の朝鮮半島の白村江での百済復興のための、百済遺民を日本が支援し、唐と新羅の連合国と戦いました。これがきっかけとなって、対馬に防人の拠点が置かれたそうです。つまり海外から侵略を監視するために、東国から兵士を集めた・・・その人々の詠んだ歌が『万葉集』の防人の歌・・・また、その時に築かれたのが金田城(カナタジョウ・・・ちなみに第四代ヤマネコ君の名前はこれから)です。時代は下りますが、中世1019年には、女真族らしき侵略があって、数百名の地元民が殺害され、さらに多数が拉致されたそうです。「刀伊の入寇」とよばれている海外からの侵略です。

その後、12世紀からは、長きにわたって対馬を統治された宗氏の時代が始まります。宗氏は、元来、政府の西の拠点大宰府のお役人でしたが、さらに国境の対馬に移動し、以後、この地で勢力を伸ばし、また、朝鮮半島との貿易も手掛けます。その間に、かつて勤務した宗像辺りの情勢が出てきます。なじみがあると、歴史地理は面白く読めます。対外戦争ではありませんが、そもそもが対馬の一大勢力で、当時の朝鮮半島の一国ながら、日本が国交を結んでいなかった高麗との交易で儲けていたらしい阿比留氏とのすったもんだもありました。内戦・・・緊急人道紛争であったでしょうか。

鎌倉時代には、2度の元の侵攻がありました。元寇の役の最初は1274(文永11)年、元と漢と高麗からの約4万の兵が戦艦900隻でわが国を襲った文永の役です。その最初の戦場が対馬。殺戮、蹂躙・・・悲惨な歴史が残っています。さらに7年後の1281(弘安4)年、再度の元の侵略は、元と漢の高麗に加えて、南宋からの兵士を含む10万余の大軍だった・・・元寇の役は、台風のせいで元―蒙古軍の船団が破損したとされていますが、実は食糧難もあったとか・・・いずれにせよ、わが国にとっては初めての外国からの大侵略でした。

その後、むしろ、倭寇また海寇とよばれるわが国からの対外侵攻的貿易または海賊的ビジネスの時代が始まり、対馬はその拠点として繁栄します。当時の高麗王朝は、何度も、宗氏に取り締まりを要請し、また、対馬襲撃もしていますから、倭寇海寇たちは、相当、暴れていたのでしょう。ついに、1419(応永26)年には、朝鮮王朝の有名な第3代太宗が、倭寇討伐を命じ、兵士1万7,285人が対馬を襲っています。が、その後は、平和な交易時代に入りました。もちろん、いろいろありますが、ま、おおむね平和裏に流れた時代と思います。

が、1591(天正19)年、かの秀吉朝鮮出兵がおこりました。文禄・慶長の役・・・この時、対馬は戦場ではありませんでしたが、30万人にも上る兵士の拠点となり、食糧難が生じたそうです。

1861(万延2)年、幕末の対馬に、ロシアとイギリスの軍艦が停泊し、緊張が高まった時期があります。そして、1864(元治元)年、再び内戦…と云うより、本格的complex humanitarian emergency(複雑な人道の危機)事態がありました。佐幕派の藩主宗義達の叔父勝井員周が主導権を握り、勤皇派100名を粛清したのです。内乱・・・大事件でした。当然、復讐的動きがおこります。が、藩主が喧嘩両成敗的に一大事件を終わらせました。200名以上が命を失ったそうです。そして、明治維新。

明治時代の一大事は、日本海海戦です。1904(明治37)年、来るべき日露戦争に備え、対馬海峡は重要な位置を占めました。要港部司令が置かれ、政府の重要な位置を占めました。参謀長以下主要な軍要職が着任しました。日露戦争が日本の決定的勝利で終えられたのは良く知られる日本海海戦ですが、英語ではしばしば、“Battle of Tsushima(対馬の戦い)”です。この海戦では、対馬の浜に漂着したロシア人兵士の救援が記録されています。

次回は、対馬の自然にも触れたいと思います。

こんな海のすぐ傍に、こんな深い森林があります・・・対馬