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セバストポリ・・・ロシア黒海艦隊司令部攻撃とナイチンゲール

ウクライナの戦は終わりそうもありません。BBCの報道によると、2023年9月22日、同国国防省はSNSで、ロシアが2014年来「不法」占拠しているクリミア半島南部セバストポリのロシア黒海艦隊司令部攻撃が成功したと発表(BBC NEWS)、NHKは、6月以降、ウクライナがクリミア半島にあるロシアの軍事施設攻撃を強めてきたとしています。(NHK)

クリミア半島・・・セバストポリと聞くと、ナイチンゲールが思い出されます。
国土の多くが寒令地にあるロシア帝国、後のソビエト連邦は、温暖な保養地としてクリミア半島を開発しました。帝国時代の皇帝離宮や貴族の別荘は今も観光資源的に残っていますし、ソ連時代には、政府が労働者の健康増進・改善のための療養地としたのでダーチャ(農園付き別荘)もたくさんできました。

ロシア黒海海軍司令部への攻撃(BBC https://www.bbc.com/news/av/world-europe-66222181)

ナイチンゲール以外に、クリミアで思い出すのは「ヤルタ会談」です。第二次世界大戦末、独伊の劣勢が明らかになりつつあった1945年2月、4~11日に、イギリスのウィンストン・チャーチル首相(1874.11.30-1956.1.24)、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン書記長(1878.12.18-1953.3.5)、アメリカ合衆国のフランクリン・D・ルーズベルト大統領(1882.1.30-1945.4.12)がクリミア半島先端東側のヤルタ近郊リヴァディア宮殿で「連合国首脳会談」を持ちました。結論として、ソ連は対日不可侵条約を破って参戦し見返りに北方領土を取得する、ドイツやポーランドなど、ナチスドイツが蹂躙したヨーロッパ諸国の分割などが秘密裏に決まりました。強引に仕切ったルーズベルト大統領は、戦争の終結をみずに亡くなりましたが、失敗に終わった国際「連盟」に代わる国際「連合」創設も話されました。

クリミア半島(セバストポリ・ヤルタ)

どの戦争も紛争も、皆、別々の様相です。二つとして同じ戦争はありません。が、どの戦争も紛争も、何も良いことはもたらしません。しかし、ある国の戦争が他国の経済を活性化させることは事実です。それを知っているのに、戦争は無くならない。私たちは、歴史から何を学んだのでしょうか?世界はいつまでよそのイクサに武器や資金を提供し続けねばならないのでしょうか。

クリミアは黒海に突き出た、ちょっとゆがんだひし形の半島で、この地の歴史はとても興味深く複雑です。独断と偏見ですが、紀元前5世紀以来、ギリシャ人に始まり、スキタイ人、タウロイ人、ローマ人、ゴート人、フン人、ブルガール人、ハザール人、キプチャック人ら多種多様な民族がこの地に住み、征服しました。15世紀頃、オスマントルコ帝国が支配した後、18世紀来、征服者はロシアでした。

かのフローレンス・ナイチンゲールの名を高らしめたクリミア戦争は1853~56年です。
この戦争、黒海を制すると、冬季の不凍港と南方路が確保できるロシア帝国の意図はあったにせよ、皇帝ニコライI世とオスマン帝国皇帝アブデュルメジドI世のちょっとしたいざこざから生じました。当時は大国だったオスマン帝国の支配層はイスラム、被支配層はキリスト教徒、さらにスラブ系、トルコ系など色々な民族が混在するややこしさに加え、両宗教の聖地イェルサレム問題が絡みました。そこに、国内にカトリック教徒が多いフランスのナポレオンIII世が関与し、一層ややこしくなった上に、本来なら仲介可能な超大国大英帝国では、内閣が親ロ、親オスマンに分断。何度も交渉はあったのですが、結局、ナポレオンIII世のフランスが大英帝国を巻き込み、オスマン側に付き、そこにまだ統一できていなかったイタリア半島の北部小国サルジニア公国エマニュエルII世が割り込み、ロシア帝国(+オーストリア)対英・仏・オスマン・サルジニア連合軍が戦いました。今風の地政学を考えれば、クリミア戦争は最初の世界大戦規模でした。が、両軍ともだらだら戦争に疲弊しただけ、唯一勝ち組的だったのはサルジニア公だけ。勇名を轟かせた小国サルジニアの王様は、直後のイタリア統一戦争を仕切ります。そのイタリア統一戦争の戦場の一つがソルフェリーノの戦いで、通りかかったアンリ・デュナンが赤十字構想を持ちました。歴史として、とても興味深い時代です。

結局、双方で50万人の死者が生じたとされるクリミア戦争は何のための戦いだったか、誰が勝ったのかも曖昧なまま、ロシア帝国もオスマン帝国も衰退します。ひとり、ナイチンゲールだけが明確な意図をもって戦場に赴き、しっかりと看護の力を示したとも申せます。が、ナイチンゲールが常駐したのは、現在のトルコ・イスタンブールの一角にあったスクタリでした。そして、最後の激戦地セバストポリには当時もロシア帝国海軍基地がありました。

クリミア戦争の終結はセバストポリが節目でした。1854年9月、英仏オスマン連合軍がクリミア半島に上陸、20日に「アルマの戦い」勝利、セバストポリに迫りますが、ロシア軍の激しい反撃で10月25日に「バラクラバの戦い」、戦況は膠着したまま11カ月後に、やっとセバストポリが陥落しました。

クリミア戦争における主要な戦闘の場 1853-56(https://www.britannica.com/event/Crimean-War)

今のようなロケットやミサイルではなく、肉弾戦的でだらだら士気が上がらぬまま、1856年3月にロシアが和平を求め「パリ条約」で終わりました。この条約では、ロシア軍が黒海に軍艦を置くこと禁じましたが、後のロシア・トルコ戦争で黒海基地の重要性を再確認したロシアと後のソビエト連邦、そして現ロシアは、黒海の軍港には執念があるのでしょう。実際、ソ連崩壊後、ウクライナ領となったセバストポリ基地ですが、ロシアは直ちに海軍引き渡しを求めています。
今回の黒海ロシア海軍司令部襲撃が、ロシアの意識に極めて大きなダメージを与えたかも知れないと思います。厭戦気分歓迎ですが・・・

それにしてもクリミア地方は複雑、多種多様な民族が住み、国名?地名?も変遷しています。18世紀後半、ロシア帝国がクリミア・ハン国併合、ソビエト連邦成立後の1921年からクリミア自治ソビエト社会主義共和国、第二次世界大戦後はソ連邦クリミア州、1954年にウクライナ・ソビエト社会主義共和国、ソ連邦崩壊後の1991年には独立したウクライナの自治共和国、そして9年前の2014年には、住民が、ウクライナ法律を無視して独立宣言、続いてロシアによる併合でした。しかし、個々の住民には伝統や習慣があります。ロシア語を母語とする人々は、当然、ロシアに対する親和性だけでなく、血の繋がりもあるはず。白か黒かと二分法で割り切れないでしょう。それにウクライナ政権も親ヨーロッパ、親ロシアと揺れてきました。そして、2014年のロシア併合時に国際社会、世界は沈黙していました。ロシア側介入は多々あったにしても、その頃から歴史的背景を思えば、現況の是非を云々できるものではありません。島国で、ほぼ、単一民族でやってきた私どもが理解できない状況です。

さて、フローレンス・ナイチンゲールです。

ナイチンゲールが、いわゆる現場に出たのはこの時だけです。しかも、現地の軍隊からは、最初、招かれざる客でした。しかし、ナイチンゲールは、同行した看護師や修道女たちと粘り強く・・・封建制の権化のような大英帝国陸軍を相手に戦いました。戦場において、あるいは戦場だからこそ、看護が出来ることの大きさ、看護の強力さをじわじわ思い知らせました。それが、世界で初めての従軍記者によって祖国に報じられました。ナイチンゲールは、識字力のない兵士に代わり、家族に手紙を書き、夜な夜なランプをもって兵士の病床を見回りました。「ランプを持った貴婦人」とよばれた所以ですが、そのランプは、日本の提灯のような形が原型でした。

看護のオーソリティにはお叱りを受けましょうが、私は、ナイチンゲールは近代看護の祖だけではなく、また、言われるように病院管理や医療統計の祖だけでもなく、オーバーオールの「ケアの祖」、実践の技術よりも、ケアの在り方をしっかり考えること、もっと申せば、医療・保健制度をちゃんとせよと仰せの、政治的思想家だと思っています。ただ、200年前に生をうけた英国上流階級のご令嬢が、なぜ、そうなられたのか・・・当時の非衛生な軍医療施設の整備、後には、行ったこともないインドに駐留する大英帝国軍に衛生改善の指示を出された・・・今でいう公衆衛生、国際保健的考えをなぜ抱き、実践されたか、父から薫陶を受けたギリシャ・ローマの学問、近代統計学の父ともされるランベール・アドルフ・ジャック・ケトレー(1796.2.22-1874.2.17)の薫陶を受けられてはいますが、それらの学問体系から、的確で実践的な指示がどうのうに編み出されたのか・・・知識と経験をどのように統合されたのか、もっと知りたいと思っています。が、後の看護師養成には、相当うるさい生活律を押し付けられています。多分、今の若者なら3日も持たない・・・この方の、現場兵士に対する態度、後の政府に対する強引な命令的指示もありますが、晩年、失明後も、考えるという活動は衰えていない、相当、気難しかったようですが、フローレンス・ナイチンゲールという一人の女性がクリミアの戦場に赴かなければ、看護はどうなっていたか・・・とも思っています。

それにしても、クリミア戦争がセバストポリで終わったように、ウクライナの戦争も、一刻も早く終わって欲しいと願います。