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アウシュビッツを尋ねて・・・その② アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所

「アウシュビッツ(Auschwitz)」は、ピアノの詩人 ショパンや、物理学賞(1903)と化学賞(1911)の二つのノーベル賞を受けたマリー・キュリーが生まれたポーランド国の南に位置するオシフィエンチム市のドイツ語名です。といってポーランドはどこに・・・

ポーランドはロシアとの闘いがまもなく2年になるウクライナの西に位置します。東北はベラルーシとほんの少しリトアニアに接し、北はロシアの飛び地カリニングラードとバルト海、西側はドイツ、南側はチェコとスロバキア、ヨーロッパの真ん中です。第二次世界大戦はナチスドイツの侵略ではじまりました。この国は、歴史上、何度も周辺国の侵略で分割支配されています。

クラクフからオシフィエンチムへの道中
オシフィエンチム市カトリック教会

オシフィエンチム(Oświęcim、ポーランド語)はポーランドの南部、国境に近い人口約4万人ほどの小さな、落ち着いた古い街です。ホロコーストつまり民族絶滅を目指したナチスドイツの強制収容所がおかれ、保存されています。長い歴史の間もほぼ単一民族だけ、さほど宗教的こだわりの強くない(と私は思っています)普通の日本人にはホロコーストの理解は難しい・・・です。が、「アウシュビッツ」を記憶し保存することはヒロシマ原爆ドームと同じく意義は大きいです。でも、夕やみせまる古い趣きのある広場に掲示された歴史解説を読みながら、ちょっと思いました。ポーランド、オシフィエンチムの人々にとって、ナチスドイツという隣国侵略者が空前絶後の非人道を行ったこと、それを保存しておくことは理性的に納得でも、内心あまり嬉しくないかもしれないかも・・・実際、ポーランド政府は、自分たちのやったことではないことを明記するべく、2007年には、ユネスコに申請し、現在の正式名は「アウシュヴィッツ=ビルケナウ ナチス・ドイツの強制・絶滅収容所(1940-1945)」に名称変更され、周辺の100に近いナチの施設を「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理し、公開しているのだそうです。

オシフィエンチムへは、かつての首都だった古都クラクフ(Kraków 1364年創立のスラブ民族最古のヤギェウォ大学<地動説のコペルニクスが学んだ>がある)の空港から約60km、のどかな田園風景の中を通り抜けます。ヨーロッパ、中世を絵にかいたような感じがする街並みと云うより小集落が農場あるいは牧場の間に散在していました。

第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線は1939.09.01~45.05.09<ドイツ軍降伏>)は1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドを侵略して始まりました。私はその2週間前に生まれました。日本は軍国主義時代、父は大阪郊外の陸軍の通信学校の教官、祖母は国防婦人会の会長をつとめていましたが、まだ、地方の生活は平和だったようです。

ホロコーストとはナチスドイツが繰り広げた民族抹殺の試みです。しかし、ヨーロッパの反ユダヤの歴史は長いのですね。11世紀の第1回十字軍(1096-99、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世がイスラム教徒に制圧されたキリスト教聖地エルサレムの回復を呼び掛けて始まった軍事行動)時代にもひどい記録があるそうです。さらに戦時下といえども、ユダヤ人への迫害はナチスドイツだけではなく、オールヨーロッパの少なからぬ人々が積極的ではないにしても、ユダヤ人迫害・・・絶滅を受け入れていたからこそ生じたとされますが、なぜ人々がそう考えたのかは、よく理解できていませんでした。へぇぇひどいわねぇ!と安穏としているのは楽、バカですが。で、知ってしまった歴史上のことでも、ドキドキします。

第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線は1939.09.01<ドイツのポーランド侵攻>~45.05.09<ドイツ軍降伏>、太平洋戦争は1941.12.08<真珠湾攻撃>~1945.08.15/09.02<日本降伏/連合国降伏文書調印>)は、ドイツ、イタリアと後に日本が加わった枢軸国とよばれる全体主義軍国主義非共産主義側と仏英ソ連、アメリカら連合国側の世界規模の戦争です。同盟国側61ヵ国、枢軸国側8ヵ国は、当時の独立国の大半がかかわったことになります。双方の死傷者は1億人近く、世界中で多種多様な残虐が行われました。その間、一般住民への最大非業が行われたたのはユダヤ人迫害とわが国のヒロシマ、ナガサキへの原爆投下、と45年3月の東京襲撃、そしてドイツドレスデンへの無差別爆撃でした。

ナチスドイツは、確かに狂的なユダヤ人抹殺を行いました。
ユダヤ人の歴史は、そう簡単に理解はできません。が、なぜ、この民族が執拗にねらわれたか、それはナチスドイツがきっかけではなく、ほとんど有史以来の長い経過があります。私(たち)は、西欧の大方はキリスト教とごく単純に思いがちですが、その中は複雑!西暦始まって以来の1000年間に、ヨーロッパのカトリック(キリスト)教徒たちはキリスト処刑の責任はユダヤ人にある、だからユダヤ人は神殿を壊し宗教をすてて放浪しなければならないとの考えを広めたそうです。そして初の千年紀(1000年が1001年になる年)にはヨーロッパの反ユダヤ風潮がひときわ大きくなったそうです。また11世紀、第1回十字軍時代にも。根が深いといえば、イスラム教徒は世代を超えて恨みを果たすから喧嘩してはいけない!と、イスラム文化圏で働いた時に指導されましたが、こちらも根深いですね。ですから、ユダヤ人の迫害を単にナチスドイツだけの蛮行と片付けてはいけないらしい・・・

ホロコースト関連の書籍を読みますと、数百万の人々を抹殺するには戦争という異常事態でも、それに協力する人々がいなければ不可能だとの記載があります。確かに、何十万の人々を運んだ列車の運転手、隣人を密告した住民・・・が、協力しなければ自分が殺される状況も否定できません。自分がその立場なら、どうしたか?確かに、オールヨーロッパの少なからぬ人々が積極的でないにしてもユダヤ人迫害・絶滅を受け入れていたからだとする意見を否定はできません。歴史をすべて知ることは不可能です。また知った一つ一つをすべて反省的に評価することも不可能ですが、これ高学問が進み、便利になった時代に生きながら、私たちは歴史から何を学んでいるのかと、イスラエルとハマスの戦いをみて、つくづく思います。

ナチスドイツ、その総統アドルフ・ヒトラーは、ドイツ国民は誇り高きアーリア人だけであるべきとし、それを受けてそのスタッフは絶滅させるべき人々として特にユダヤ人を収容「処理」する場を造成しました。その最初が、1940年1月、占領地オシフィエンチムにあったポーランド軍兵舎の強制収容所転化です。が、最初に送り込まれたのは犯罪常習者、次いでポーランド政治犯でした。しかし、41年10月、アウシュビッツ第一よりはるかに規模の大きい第二強制収容所「ビルケナウ」が造成され、42年1月にはホロコーストを決定づける会議が開かれた後、各地のユダヤ人は続々とこの収容所に送られます。ここで亡くなった人の正確な総数は判らないそうですが、現在では百数十万人とされています。アウシュビッツを生き延びた少数の人々の手記、また、管理者の手記があります。

約192ヘクタールの広さに30数棟のレンガ造りの兵舎が整然と並んでいます。高圧電流が流れていたトゲトゲのある鉄条網が周辺を囲んでいます。番号のついた兵舎、その一つ一つで途方もない数の命がつかの間留まったのです。

住み慣れた土地で、ユダヤ人であることを明示する印をつけられ、行動の自由や仕事を制限され、そしてドイツから東方へ追放されると聞かされ、そして僅かな所持品の携行は許されました。当然、貴重品を持参しますが、そんなものは直ちに没収されました。収容者から取り上げためがね、靴、義足、毛髪などだけが積み上げられた部屋。床に敷かれた粗末なわら敷きのベッド、また、粗末な木製の三段ベッド。廊下に掲示された番号入りの縞の囚人服の写真・・・逃亡を試みたものや収容所内で反逆行為をおこなったものを銃殺した中庭の「死の壁」、一方の窓は開かず、次に銃殺されるべき死刑囚のいる部屋の窓は解放され、次なる自分の運命を見るようになっている。特に、女性への生体実験が行われた棟も残されている。そして、いったんは破壊されたが、後に修復されたガス室も復元されています。

偽装シャワー室の天井。殺虫剤チクロンB噴入後20分で何百人でも全員死亡した。
再建された遺体焼却炉。証拠隠滅の遺灰は近辺の川、原野に散布した・・・
初代所長ヘス処刑の絞首台。焼却炉横の広場に設置された。

不謹慎な質問ですが、幽霊は出ますか?と尋ねたら、否定はされませんでした。

そして、収容所の一角、復元されたガス室のそばの狭い広場に、一見、ブランコかしら、と思うものがありました。このアウシュビッツ強制収容所の所長として大半の殺戮を管理したその人ルドルフ・フェルデイナント・ヘスが、1947年4月16日に絞首刑を執行された装置でした。最後、兵士に紛れて逃亡を図ったものの1946年3月、イギリス軍に捕縛され、収容中に長い手記をのこしています。この人も、後に逃亡先のアルゼンチンでモサド(イスラエルの諜報機関)につかまった強制収容所へのユダヤ人移送の責任者アドルフ・アイヒマンも、ハンナ・アーレント風には、どこにでも居るごく普通の職務に忠実な組織人間であり、それが結果の重大さにかかわらず『陳腐な悪』を黙々と実践したのです。

ヒトは何にでもなれる。良い人にも極悪人にもなる、なれる・・・のです。