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Chair's Blog 会長ブログ ネコの目

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継続する戦争とヨハン・ガルトゥングの死

2024年2月24日は、ロシアがウクライナに侵攻して満2年目でした。
こんな記念日など無い方が良いのですが、少し振り返ってみます。以前も書きましたが、ロシアのウクライナ侵略は2014年のロシアのクリミア半島他の強引な併合から始まっているとみなせます。が、ロシアが周辺国を手なずけたい思いは、恐らく、1991年に旧ソビエト連邦が崩壊し、その構成共和国がロシア他12ヵ国の独立国家共同体(英語ではCommonwealth of Independent States CIS)となって以来の願望なのでしょう。

英BBCより
米CNNより

今でも世界最大の領土をもっていますが、恐らく、かつての領土であった連邦内の各地域が○○○スタンなどとの新しい国名をもって独立しただけでなく、東西冷戦時には西側のNATO(North Atlantic Treaty Organization、北大西洋条約機構)に対抗するための東側の軍事同盟であったワルシャワ機構(Warsaw Treaty Organization)からは当然のように離脱した上、ほぼ全体がNATOに加盟するなど、一方の盟主であったロシアにとっては一枚一枚裸にされるような思いがあったのかもしれません。

中世はヨーロッパに属し、文化と栄誉を極めていたロシア帝国がなくなり、思想的に統一されたソビエト連邦となり、それが壊れてバラバラになった。そして周囲は思想的に、つまり政治的にも対立する国々ばかり、まるで丸裸になったような気がするのでしょうか。大ロシア帝国復興あるいは復旧でしょうか。近隣国が西側になびいてゆくことは嫌なだけでなく、国家治安上の問題でもあったのでしょう。

戦争は独立国の権利です。が、だからといってどの国の指導者でも突如隣国を軍事支配できるものではないと思います。また、どの国であってもいわれなき「侵略」に対し、犠牲者を出すことなく、独立国の矜持を保ち、侵略者を撃退するあるいは最低限屈しない、つまり戦いに負けないことを目指すでしょう。しかし、人的物的犠牲なく、そんなことを全うすることは不可能です。などと、世界で最も安全度の高い日本で言っているのも無益なことかもしれません。

2014年、黒海の不凍港をもつクリミア半島とウクライナ東部のロシア系住民の多い地域を「強引に」併合したロシアに対して、国際社会はG8から追放しました。確か、東部の紛争は、ドイツとフランスが仲介し、ひとまずの停戦状態になったと記憶しています。が、それ以上の国際対応はなかったように思います。無責任な言い方ですが、当時、当該国も国際社会ももっと予防策を講じれば良かったのかもしれません。多分、私が知らないだけかと思いますが、色々な交渉も行われたかもしれませんが、あまり記憶に残る国際会議はなかったように思います。西側との緩衝地帯的で、何といっても元々は同じロシアだったウクライナがNATOに加盟する!!そんなことは許せない!!とロシアは思った・・・そして2022年2月24日。

世界中からといっても良いほどの支援を得た2年間の抵抗でも決着はつきません。ウクライナの首都キーウの2周年では、戦死者を悼むブルーと黄色の旗、旗、旗、壁に貼られた戦死者の写真、涙にくれる母たち。現場で死に向かい合っているのはウクライナの多くは若い男性でしょう。

数日前、ノルウェーの社会学者、平和研究者ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung)の死が各メディアで報じられていました。

日本にも、何度かおいでになっており、創価大学、中央大学、国際基督教大学、立命館大学、関西学院大学の客員教授でもあり、日本人のパートナーもおいででした。お目にかかったことはありません。平和学は私には難しすぎましたが、この方の唱えられた「構造的暴力」や「間接的暴力」の概念は開発途上国、特に紛争地で働いている間、相手の見えない、実に多種多様な不都合不条理にいらだった時には腑に落ちる説明となりました。

NHK国際報道2024より 旗のひとつひとつに犠牲になった人の名前がある・・・

ガルトゥングは、「暴力」には物理的暴力だけでなく、経済的、社会的、心理的手段によるものがあるとし、これらはしばしば身体に加えられる暴力よりも破壊的だとしています。そして、このような「暴力」は社会、特に国際社会には「構造的」に存在しており、不平等や不正義を生む温床になると指摘しています。このような過程をきちんと理解し対処することこそが恒久的な紛争解決や平和構築に重要であるから、「暴力」の根本的原因を探り、より持続可能な解決策を模索すべきとの説明は理屈の上ではとてもよく納得できました。しかし、率直な感想を申しますと、こんなことを論じている人間と、最たる直接的暴力である戦争をやる、やろう、やれ!という種類の人々の間には疎通性がないように思います。

ヨハン・ガルトゥング氏、写真はWikipediaより。訃報は2024年2月21日付け日本経済新聞の朝刊より。

ガルトゥングによれは、武器を行使する「戦争」がない状態は「平和」だが、直接暴力がないというだけは「消極的平和」に過ぎない。貧困・飢餓・差別・抑圧といった「構造的暴力(暴力行為を引き起こす誘因が明確にある個人や集団に存在すると特定できない、いわば社会の構造的な問題に起因する暴力)」もない状態こそが「積極的平和」とし、本来はそれが目的であるべきとしています。

さらに構造的暴力に対して、誰が暴力をふるっているのか行為主体がわかる場合は直接的暴力(誰が誰をたたいているかが明白)で、戦争はその最大規模とします。ガルトゥングが目指す平和は単に暴力がない消極的平和ではなく構造的暴力がない積極的平和です。それは誰にとっても申すまでもないことです。

昨年10月7日に始まったパレスチナ・イスラエル戦争も解決の目途すらありません。
病院を攻撃するなどもってのほかですが、その病院の地下が武力拠点であるとか、国際機関のスタッフが関与しているとか、憎しみと疑念疑惑が深まったこの地にはどうしたら、つかの間でも平和がもたらされるのかでしょうか。

よく言われることですが、水や空気と同じように平和や安寧は、それがある時には気にも留めていない。それが無くなった時に初めてその有難みが判る・・・のですが、無くなってからでは遅いのです。きな臭い世界・・・といわれている現在こそ、より積極的に平和を守らねばと思います。