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イスラエル-パレスチナ(ガザ)戦争の6か月 UNHCRとUNRWA

UNHCR(国際連合難民高等弁務官事務所 The Office of the United Nations High Commissioner for Refugees)、通常、ユー・エヌ・エイチ・シー・アールと呼んでいる組織は1950年12月14日に設立された難民に関する国連の一機関です。組織名が「事務所」とあるのは、1950年に国連総会で採択された「難民の地位に関する条約」と、1967年に合意された「議定書」に基づき、国連が認定する「難民」(のちに「国内避難民」も)の保護など、難民関連諸問題を解決する難民高等弁務官の活動を補佐する事務所ということで、本部はスイスのジュネーブ、かつてはレマン湖畔の、確かWTO事務所の一角にありましたが、1991年に緒方貞子先生が着任された後、立派な事務所になりました。

「難民とは、戦争・紛争、人種差別や宗教的迫害または思想や政治的信条あるいは経済的困窮や災害・飢饉・感染症などのために、国境を越えて他国に庇護を求めて避難する人々」をいいます。母国の保護を受けられないため、本来の居住地(母国)を自らの意志で離れたり、強制的に追われたりする人々です。そもそもの難民救済は、北極探検で有名なノルウェーの探検家、学者、政治家フリチョフ・ナンセン(1861.10.10-1930.5.13)が1920年代、第一次世界大戦後のヨーロッパで、本来の居住地を離れ国境を越えて避難することを余儀なくされた主にユダヤ人対策として始めたものでもあります。

国連難民高等弁務官事務所 UNHCR のエンブレム

ナンセンは1920年に国際連盟の難民高等弁務官を引き受け、幅広く活動しましたが、1930年、その死によってその事務所は国際連盟の一機関となりました。この頃、複雑な政治性もあって、それほど活発な活動ができていたとは申せないように思いますが、第二次世界大戦に至る時期のナチスドイツのユダヤ人迫害以降、大量の民族移動があり、国を離れて避難する人々への関与が国際的も重要になりました。1943年には連合国救済復興機関(United Nations Relief and Rehabilitation Administration UNRRA)が生まれ、第二次世界大戦後の1946年、国際難民機関(International Refugee Organization IRO)が設立され、さらに1950年にUNHCRとなっています。

2023年10月7日に始まったパレスチナとイスラエルの戦争は、半年を超えました。そもそもは、パレスチナ側が仕掛けた奇襲・・・が最初でしたが、歴史的にもやられたらやり返す!関係のこの地域の戦いの歴史は長いのです。

中東でパレスチナと呼ばれている地域は、そもそも長年、オスマン帝国の支配下にありました。第1次世界大戦でオスマン帝国が敗れ、イギリスがパレスチナを支配するようになりました。その頃、このあたりでは、ユダヤ人が少数派、アラブ人が多数派でした。古来、放浪の民ともされてきたユダヤ人が、約束の地であるパレスチナに国を作りたいとの想いを、あえて申せば、無責任に国際社会がイギリスにゆだねたことで現在に至るユダヤ人とアラブ人の対立が生まれました。1948年5月15日のイスラエルの独立、それを受け入れられない周辺アラブの人々との第一次中東戦争以来、4度にわたる戦争が起こっています。現在を第五次とみなす方もあるようですが、半年の紛争で、双方の死者は3万人以上、負傷者は7万人以上、そしてガザ地区の住民の57万6千人が飢餓に面していると報じられています。さらにガザ地区の35%は廃墟化しており、36病院のうち、かろうじて機能しているのは10病院とか・・・言葉もありません。

2024年4月5日に、WHOが主導する複数国連機関の調査団が、ガザ北部のアル・シファ病院を視察しました。破壊程度を調査し修復に向けた取り組みだそうです。が、そもそもその調査団は、3月末から6回も立ち入りを拒否されています。一時、病院が紛争指揮の本部との報道もありましたが、なぜ、でしょうか?北部だけでなく、ガザ地区で最大最重要な医療施設だったアル・シファ病院は、今や廃墟化しています。建物のほとんどは損壊され、ほとんどの設備も使用不可か灰燼に帰しているそうです。調査団は、施設は完全に機能不全状態で、ガザでは救命的医療はほとんど行えないと報告しています。最低限の機能回復も不可能のようで、国連などが安全に機器や物資を持ち込めるように不発弾の除去などにも膨大な努力が必要だとしています。

イスラエル軍、ガザ南部で「部隊縮小」と発表 人質解放なしに停戦ありえないとも(BBCニュースより)
イスラエル軍が撤退した後、壊滅したカーンユニスに戻るパレスチナ人 [Ismael Abu Dayyah/AP](ALJAZEERAより)

ガザ北部には、酸素供給できる施設はかろうじてカマル・アドワン病院だけ、CTスキャン機能はない・・・そうです。なんと病院の救急部や外科病棟のすぐ外には多数の墓が掘られ、しかも、多数の遺体が、手足が見える状態で埋葬されていた・・・さらに敷地内にも死体が腐乱した時の刺激臭があったと報告しています。

病院がイスラエル地上軍に包囲されていた間、患者は食糧や水不足、医療衛生状態の深刻な不備があり、しかも移動時には銃を突きつけられていたと。その他、およそ医療施設にあるまじきことがいっぱいあったと報告されています。戦いを肯定するわけではありませんが、空から、そして地上で攻撃がある・・・ということは死者やけが人が出ることは必定です。病院を破壊し、外部からの調査団は拒否したり妨害したり・・・医療ニーズが急増する中、有効な仲裁システムが機能せず、もともと乏しかった医療サービスは、医療資材の欠乏だけでなく、燃料や食糧、そして水や電気の補充なく、悲惨な状態になっています。

戦争開始から半年、北部はほぼ廃墟化しています。し、南部でもナセル医療複合施設が破壊され、すでに悪化しつつあった保健医療サービスは一段と劣化しています。昨日、4月7日はWHOが「私の健康、私の権利」をテーマにした世界保健デーでした。が、こんな言葉も、現地の人々にもイスラエルの首相にも軍にも聞こえないのですが。

ところで、ガザの人々はパレスチナ難民と呼ばれます。が、そこにはUNHCRの姿はありません。
パレスチナと呼ばれる一帯の難民を扱う国連機関はUNRWA( United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East 国際連合パレスチナ難民救済事業機関、アンルワと呼びます)です。この機関は国際連合事業機関の一つで、現在も400万とも500万人ともされるパレスチナ難民に対し、ガザ地区とヨルダン川西岸地区からなるパレスチナ国およびそのパレスチナ難民を受け入れているヨルダン、レバノン、シリアでの支援を行います。そして、ここでいうパレスチナ難民とは、1946年6月1日から1948年5月15日の間にパレスチナに居住していたもので、その家と生計を失った者とその子孫であることと定義されています。つまり、イスラエル建国の1948年5月14日によって、本来の居住地を追い出されたパレスチナの人々を対象としていると申せます。

ある国が新たに生まれて難民が生じる・・・難民問題には優れて政治的な色合いがありますが、UNRWAはまさにそれが問題であるように思います。かつて勤務したWHO本部の緊急人道援助部は、まさにそのパレスチナ問題のために設置された部門でした。そのWHOはじめ、食糧はWFP、予防接種などはUNICEFも・・・という風にたくさんの国連機関や、国際的NGOが支援していますが、先週のように人道援助を行っていた「ワールド・セントラル・キッチン」のスタッフ7名がイスラエルの攻撃で亡くなるなど、あってはならないことが起こっています。

国連パレスチナ難民救済事業機関 UNRWAのエンブレム

そのUNRWAは、第一次中東戦争(1948年5月15日-1949年4月頃)後、1949年12月8日の国際連合の総会で設置が決議され、1950年5月から活動しています。UNRWAは、認可された58の難民キャンプで援助活動を行っています。が、難民発生以来・・・つまりイスラエル建国以来、70年もたっていますので、キャンプなどという呼び方でイメージするテント村ではなく、しっかりした建物もあります。先般、アル・シファ病院地下がガザ武闘派の拠点ともされたり、UNRWAスタッフがイスラエル奇襲に関与していたとの疑いがあったりとか、キャンプも都市化し、建物はコンクリート造りとなって、紛争時の拠点になるものもないとは云えない・・・自然災害の避難民支援に比し、とても難しい仕事を担っている組織です。

とまれ、ウクライナも、スーダンも火の粉は飛んでいます。莫大な破壊武器に費やす経費で、攻撃地でよいことをすれば、何かが変わるのに・・・・と、思います。

JICA着任時の緒方貞子先生と