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「看護師が社会を変える」と『「診療看護師」が変える医療』

「日本財団在宅看護センター」ネットワークの第2回北欧研修が終わりました。

北海道から九州にいたる各地からの参加者は在宅/訪問看護事務所の開設者、すなわちかつての財団主宰の8か月研修を受講した管理者とそのスタッフたちです。各地の利用者宅訪問は徒歩5分、自転車で十数分から車で1時間以上、はたまた最近、長崎や沖縄の開業仲間は船で離島への訪問もあるそうで、1日一軒しか訪問できないとか。そして求められる看護もさまざまのようですが、いつ、どこのどなたであっても1日24時間、365日、心を込めた科学的でベストと考える看護を実践してくれています。ちらりほらりですが、彼女ら彼らがかつて受けた研修を行った私ども笹川保健財団にまでお礼を伝えて下さる利用者様もいらっしゃいます。うれしい限りです。

イザ!ヘルシンキへ 中国語の案内も・・・(2024.5.18)
飛行13時間余、間もなくヘルシンキ!

さて、北欧研修での見聞は、追って報告書にまとめますが、出発の前日2024年5月18日の日経新聞の医療・介護・健康欄に『「診療看護師」が変える医療』という論考(2024年5月18日日経新聞朝刊https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE282MM0Y4A420C2000000/)をフィンランドに向かう飛行機の中で拝読しました。診療看護師(Nurse Practitioner NP)とは、大学院で特別な研修を受け、実践的な医療技術を行使できる看護師です。わが国では、現在、「日本NP教育大学院協議会」が18の大学院をその教育施設と認定しているほか、日本看護系大学協議会の認定した2施設と合わせて20施設で養成されていますが、まだ、国家資格ではなく民間資格です。日本では、まだ、1,000名に至っていません。が、外国、特にアメリカでは人気の資格ですし、日本でも今後はさらに増えるでしょう。ただ、私は、この記事にちょっと違和感を持ちました。「日本看護協会などによると、ナース・プラクティショナー制度は米国、カナダなどで導入され医師不足などに対応している。・・・」という説明に、です。

あまり目くじら立てるべきではないことは十分承知していますが、NPが医師不足対応に役立っているとしても、看護師独自の仕事にこそNPが力を発揮すべきと、私は考えるからです。もちろん、これまでは医師だけが行ってきた、医師だけに許されてきた医療行為のなかに、今後はしっかりと訓練を受け、それを裏打ちする学問を修めたNPが担う領域が増え、それだけでなく、同様に知識や手技を修得した専門看護師、さらには認定看護師が引き受けられる手技も増えていくかもしれません。しかし、です。NPほか看護師がその学問的知識と実践の技量を高める理由は、あくまで看護本来の業務において責任をもって行うことを確立するべきだと、私は考えています。看護師は医師の代理ではありません。ですから、現時点では訓練を受けたNPにだけ許されている「医療技術」が、将来、しかるべき資格のある看護が行う本来業務の中に入ってくる・・・ことも想定しておくべきではないか、そうなるには看護基礎教育の在り方も変わるだろうと思っています。

かつて看護大学学長を務めながら、ほんのわずかしか実践できなかったのは、いささかでも看護教育への基礎医学(解剖学、生理学、薬理学、生化学)の看護学として学問体系を構築し、あわせてリベラル・アーツを強化することでした。もちろん、それまでに培われてきた看護教育の歴史は尊重しますが、全体的にはやや実習優位・・・実習時間確保さえできればよい看護師が育つといわんばかりだと、「看護部外者」の私が感じたことは事実です。そして、それは若い脳みそを鍛えられる重要な数年間にしては、あまりにももったいない気がしたものです。年間の授業時間数の制約の中で、各教員が努力していることを否定はしませんが、“Can’t see the forest for the trees 木を見て森を見ず”・・・を如何ともできなかったことを今も反省しています。

ナイチンゲールの同時代人だったジョン・スチュワート・ミルが、1865年、セント・アンドルーズ大学の学長に就任した際のスピーチをまとめた『大学教育について』では、「大学とは職業訓練の場ではではない。専門知識をよりよく使うために一般教養教育が必要なのだ。」として、そのためには文学、自然科学、社会科学、道徳、宗教、芸術などなどリベラル・アーツが重要だと説いています。

こんなことは、一方ではいまさら!でもあり、他方では世界中がDX(デジタルトランスフォーメーション)とかAIを説かなくては何もできない現在には不可能なような気もしますが、逆に、そうだからからこそ、一般教養=リベラル・アーツが必要だと、歳をとった私はますますそう思います。

ですから、NPは、当然のことですが、基本的には人品優れた看護師であり、その上での学問性専門性に裏打ちされた技術の達人であって欲しい・・・そしてそのような専門職は医師の代理ではありえないと、私は確信します。「看護」という、優れて人道的な専門分野において、他にかわるべき人のない仕事・・・時には、医師の代理もできるけど・・・ではないでしょうか?

ケア・・・を適切な日本語にすることは難しいのですが、いうならば、心身まるごと包み込んだ専門性をもった癒しでしょうか。とりわけ、すべての生物が迎える死という場にあっては、機械や薬ではなく、看護の技量が、すべての人々の旅立ちを支えます。

どなたかの言葉に、「ヒトが生まれる時と死ぬときは神さまの領域」というのがありましたが、その昔の医師は生に向かってプラスの闘いを行うに対し、看護師は死に向かう人々を穏やかに、そして満ち足りて見送る役割をもつかさどる・・・かつての小児科医時代、子どもを死から救うために悪戦苦闘した、ちょっとかわいそうな自分と現在の看護師諸氏の立ち振る舞いをみて、そんな感想を持っています。

東京の上空・・・はるか彼方に富士山