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Chair's Blog 会長ブログ ネコの目

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酷暑・・・温度計のはなし

暑いのに、さらに暑い話をするのは能がないようですが、今までに経験した猛暑の話。

何度も書いていますが、実際に経験した最高気温は1980年代末のパキスタン・ペシャワール、50度以上でした。持参していた日本製の温度計の目盛りは、上限50度で、その上に2、3度の線がありました。最高に暑かった日、赤い液体はそのあたりまで上っていましたが、正確に何度かは読めないものの、現地の新聞では53度と報じられていました。

そもそも温度計ですが、私が持参したのは、ごくありふれたものでした。25センチくらいの黄色の台の真ん中に、ガラス管があって、赤い液が温度によって伸び縮みするものでした。

温度計の歴史はあいまいですが、1592年頃に、かのガリレオかその友人が球付きのガラス管を水面に倒立させ、球部を温めると水面が変化することをみたことが古い記録だそうです。(Wikipedia「温度計」より)そして1612年には、医師だったその友人サントーリオ・サントーリオが、医療に使ったそうです。熱を測るにはでっかすぎましたが・・・そして1650年頃、トスカーナ大公がアルコールを用いた温度計を作成させた・・・そうです。いずれにしても、その頃までの温度計は数字的にはあいまいだったでしょう。1702年、定点を定めて光速を測定したデンマークの天文学者オーレ・レーマー が、水の融点と沸点、つまり零度と100度の間に目盛りをふった温度計を制作、1714年には、華氏の元祖でもありますが、温度の正確さや色々な液体の沸点が違うことを発見したポ-ランド・リトアニア生まれのガブリエル・ファーレンハイトが、水銀をつかった液柱温度計を発明します。

フランスの物理学者ルネ・レオミュールが水の沸騰点を基に温度計を工夫した後、1742年、スウェーデンのアンデルス・セルシウスが、現在のような水の沸騰点を100度とする温度計を完成させました。日本に温度計が来たのは、1765年、明和2年、徳川10代将軍家治の時代、オランダからだそうです。

閑話休題。その昔の酷暑猛暑激暑烈暑・・・の頃の2,3のエピソードを。

実際の写真は行方不明ですが、自動車のボンネットの上で卵の白身は、すぐに白く濁りトロッ・・・となりました。白身は約60度で固まり始めるそうですから、手が触れられない熱さのボンネットはそれ以上だったのでしょう。そして黄身も固まりはじめたのですが、カメラ片手に、炎天下に流れおちる卵をとどめるのはむつかしく、結局、半固まりの卵は、土の上に流れ落ちました。

ある朝、庭の薔薇と3メートルにも伸びたスイートピーに水を撒きはじめましたら、チョキダール(門番のこと。車の出入りの際、両開きの門を開け閉めする係。現地では、まずまずの一軒家では門があり、その開け閉めをおこなうチョキダールを雇うことは掟的きまり)のアマヌラ!!が怖い顔して、遮りました。なぜ?とは思いましたが、それでも2、3分水撒きをして出勤しました。夕方、帰宅しましたら、薔薇の葉っぱに黒い点々!! 「これは何?」と私。アマヌラの、手振り身振りの説明では、水撒きした水滴が短時間に加熱され、葉っぱがやけどしたというのです。

ペシャワールからバスで半日、いわゆる部族社会の出身で、農業牧畜の生業〈なりわい〉とする一族の出身のアマヌラは、季節の移ろいに従った農作物の種まき、収穫、家畜の世話に長〈たけ〉ていましたが、以後、私は、色々な庭作業をアマヌラに学びました。ついでに申しますと、郷里に帰った時は、お土産に足を縛った鶏をぶら下げて帰ってきたり、見たこともない自家製のお菓子をどっさり持ち帰ってくれたりしたものです。

最大にアツさを感じた話。イスラム文化圏では金曜日が休日、ある金曜日の朝、数日以上も熱波が続き、しかも停電、朝から、カラダが燃えそう!でした。そのような時期、冷蔵庫も冷凍庫もめったやたらと開けてはいけません。何と何を出すかをあらかじめ考え、ドアを開けたらパッと必要物品を取り出し、素早くドアを閉めます。その技〈わざ〉は、当時、従事していたEPI(Expanded Programme on Immunization =正式にProgrammeでProgram ではない、拡大予防接種作戦)では、すべての予防接種員が修得すべき重要な技術でした。なぜなら、気温がとても高い熱帯地方の、いわゆる途上国では、ゆったりまったり冷蔵庫のドア開けていると庫内温度がすぐに上がってワクチンが失活するからです。以来、私は、現在でも、冷蔵庫内のどの位置に何があるかは覚えているというか決めています。牛乳の定位置、ヨーグルトの定位置、残り総菜の定位置、そしてパッパと取り出します。多少はエネルギー消費節減に役に立っているかも・・・

さてさて、ぼんやりと遅いブランチ朝食兼昼食をとって、マヨネーズのチューブをテーブルの上に置いていました。家具の産地でもあったペシャワールでは、立派な黒檀やマホガニーの食卓も珍しくありません。拙宅のそれも立派なマホガニー、とても重くてどっしりしていました。そして、いった熱を持つとしばらくはあったかかったのです。アツイがゆえに、少しはましな午前中に一仕事して、しばらくして食卓にもどりました。そこで見たのは、ホカホカテーブルの上のマヨネーズのチューブの中で、空気の泡がブツブツしているではありませんか!マヨネーズが煮えていたのです!

しばらくは、息が止まりました。コリャアツイ!!

ホントに、ほんとうに暑かったです。夜な夜な、かすかな冷気でなく温気にふれると生き返ったような気になり、やがて、夜明けが38度になる・・・本当に涼しいと思いました。夜明けのアザーン(イスラム教の礼拝時間の呼びかけ)「アラッホ アクバル(アラーは偉大なり)・・・アシュハードッ アッラッ イラーハ イララッ(我はアラーの外に神はいないと断言する)・・・・」が遠くに流れるのをぼんやりと耳にしながらつかの間の朝寝・・・懐かしく思い出します。

昨今の日本の激暑、尋常ならざる暑さの中で、勤勉に勤務する姿勢・・・在宅勤務も考えねばならないか・・・と思います。