JP / EN

Chair's Blog 会長ブログ ネコの目

猫イメージ

ロンドンの久代さんからの便り、中村哲がアフガニスタンでなしたこと

かつて9月の終わりといえば、爽やかな秋たけなわでなくとも、紅葉・・・行楽の秋、ホカホカヤキイモ・・・食欲の秋、夜長を楽しむ・・・読書勉学の秋などなど、気持ち良い季節の訪れを実感できました。なのに、今年は夏が終わったとも秋になったともいえない不可思議な気候が続いています。

そして1月に大地震があった能登の地に非情な豪雨災害・・・地球上のあちこちに続いている争いごとに天が怒っているとしても、それを日本の、よりによって能登に向けることはないのに・・・

ここで何を言っても詮無いことですが、能登の新たな災害の犠牲者・・・復興に当たっておられた方々の中にも犠牲者がでているとか・・・亡くなられた方々を悼み、そして激しく意気消沈なさっているだろう現地の人々にこころからお見舞い申し上げます。

笹川保健財団では、2014年来の「日本財団在宅看護ネットワーク」の仲間が、数か月来、金沢、輪島で協力させていただいておりますが、再びの災害にどう立ち向かえるのか・・・

そんな中で、ロンドンから懐かしい中村哲先生の話が聞こえてきました。
パキスタンのハンセン病対策のためにペシャワールにわたった時は医師でしたが、2019年12月4日、暗殺という非業の最期を迎えた時の哲は超人・・・よりも神の域にいたような気がします。
まもなく満5年になります。

ロンドン大学の付属病院のひとつで、かつて奉職した日本赤十字九州国際看護大学1期生の久代さんが勤務しています。すでに十数年のロンドン生活で、彼女自身もロンドン子になっているでしょうが、素敵な中年(失礼!)看護師として、恐らく、勤務先の病棟でも重要な役割を占めているものと信じています。時折のヨーロッパ訪問時にロンドン泊があるとき、または、ご一家が郷里に帰られる折に、お目にかかります。去年は、年末に博多で会いました・・・その久代さんからメイルが参りました。

「喜多先生 お元気ですか。日本はまだまだ暑いようですね。こちらは朝晩の冷え込みが徐々に増しています。
さて、先日、パキスタンのペシャワールからのご一家のお世話する機会がありました。

ぺシャワール!!
その地名を聞くとやはり思い出すのは中村哲さん。
そのご一家はアフガニスタンに移住したものの内戦で状況が変わったため、再び、パキスタンに戻り、過酷な経験をなさったこともあって、家族ともども英国に移住されたようです。

中村さんのことを尋ねると、
『もちろん知ってるよ!知らない人はいないよ。彼は大地を緑に変えた。
そこは本当に素晴らしいところだったよ。
街の様々な場所、道に彼の名前がつけられたんだよ。』と、生き生きと語ってくださいました。

ほっこりした気持ちで勤務を終えたので、ここにお知らせする次第です。 久代」とありました。

中村哲とのめぐり逢いは1986年11月、まだ、ペシャワール会が今ほどの規模ではなく、哲先生も主に現地のハンセン病者のケアにあたっておられました。
私の職場と住まいの中間に先生の診療所がありましたので、ほとんど毎日のように立ち寄っていました。2、3日お尋ねしないと、「なん、しとっと?」とお尋ねがありました。そして、奥方からは、「夕食は?」とお招きを頂きました。不思議なご縁でした。

いちいち、定かに回答したことはありませんが、アフガニスタンの活動拠点を強化し展開しようとされた時、井戸を掘り始められた時、そして久代さんのメイルにあるアフガンの方をはじめ、皆が知っているというレベルに至っている壮大なクナール川に灌漑のための仕組みを構築した時、その折々の比較的早い時期に計画を承っていたことに、後々、気づきました。特に、郷里福岡の大河筑紫次郎と呼ばれる筑後川の山田堰を参考にされようとした時には、その存在や機構を調べてほしいと申されました。

哲先生は医師として病気を診ること病人を癒すことから始めて、壮大な灌漑計画を企画実践することを通じて地域を癒されました。そして、その間、ひとりひとり人間の病気を治すことから、その人々が自分の命、家族のそれ、地域の安寧を考える、その道筋をつけられたと思います。それが一つの集落、そして二つの集落から一地域を復興し、そこに住む人々の考え方を変えていったのだと、私は思っています。

ペシャワール会 会報86号より
ペシャワール会 会報88号より
ペシャワール会 会報特別号(100号)より
ペシャワール会 会報特別号(100号)より

巨大な資金と計画で、壮大な建物や道路、ダム、飛行場を作ることが大事なこともありますし、紛争を停めて、予防注射をすることが必須のこともあります。が、外部からの介入は、しょせん、張り子のトラになりかねません。それが真に現地の人々のお役に立つには、現地の人々が、なぜ、その介入が必要、必須なのかを理解すること、そしてその経過に関与することが基本条件です。

哲先生は寡黙な人でしたが、その周囲の人々には、一言一言がきちんと吸収され、定着していたのです。だからこそ、あの戦乱の続きのアフガニスタンの人々が、今も彼のなしたことを誇らしく思い、そして哲先生の想いを自らのものとして伝承できているのでしょう。

ペシャワールと聞けば血が騒ぐ・・・というか、胸が痛む人々はたくさんいます。
久代さん、そのペシャワールからの、多分、お生まれはアフガニスタンかもしれないご一家のケア、よろしくお願いしますね。

(ペシャワール会公式ウェブサイトから引用している画像および内容は、すべてペシャワール会の許諾を得て使用しています。)

「天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い」著 中村 哲(NHK出版)