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Chair's Blog 会長ブログ ネコの目

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「2024年 中村哲記念 アフガニスタンからの報告~中村哲の希望を受け継いで」

あの日、私はジュネーブのホテルでした。
東京の姉から「中村先生が・・・」とのショートメイルに愕然としている私に、前日、ロンドンで会ったばかりのHisayoさんからも同じメイルと追いかけて「亡くなった・・・」との知らせが来ました。何ということ!!2019年12月4日、中村哲先生がアフガンの地で襲われた・・・

それから間もなく5年になります。
その間、2020年冬以降の新型コロナパンデミックで混乱した世界の中でのアフガニスタンは忘れられつつあり、突発的事件時にのみ、世界のメディアに現れていたような気がします。

大国かつてのソビエトの南、厳しい山塊があるとはいえ、中国とはわずかに接し、インドにも近く、西は砂漠をはさんで中東の大国イラン、そして南が愛憎相半ばするようなパキスタンにかこまれた内陸国アフガニスタンは40年以上、紛争まみれです。

すなわち、1979年の旧ソビエト軍の侵攻以後、10年にわたって東西の対立の最後の接点だったパキスタンへの国民の1/3の難民化避難に始まります。10年後、旧ソビエト軍が撤退し、すったもんだの挙句、共産主義に抵抗してきたムジャヒディーン(聖戦士)政権ができましたが、国内は混乱したままでした。そして、その隙に・・・といいたいようなタリバンというイスラム原理主義を奉じる一派の勃興、そして2001年9月11日、かつては共産主義に抵抗していたアラブ財閥の御曹司だったムジャヒディーン オサマ・ビン=ラディーンによるらしいアメリカ同時多発テロの発生。その年の12月には、アメリカ支援で、戦闘経験をもたないカルザイ氏を首班とする暫定政権が成立、さらに2004年10月には、カルザイ首相のアフガン・イスラム共和国が発足しました。がこの間も、オサマ・ビン=ラディーンの組織アルカイーダをかくまっているとされ、国の隅々まで、執拗な探査が行われたことでの不安定さが続いたアフガニスタンでした。

2011年、オサマ・ビン=ラディーンはパキスタンの首都に近いアボタバードで米軍により殺害され、2015年のタリバンを含む国際的な和平会議を経て、2016年1月11日は、アメリカ、パキスタン、アフガニスタン、中国とタリバンの対話が始まりました。が、タリバンは西欧主導の和平交渉を拒否し、歴史が反転したような数年が過ぎました。2021年4月、アメリカ合衆国バイデン大統領が同年9月11日までの駐留米軍の完全撤退を発表し、実際、米軍撤退が進む中、タリバンは主要都市を次々制圧し、時のガニ大統領の亡命によって2021年8月15日にはカブールが落ち、全土がタリバン支配下になり、2021年8月19日、タリバンはアフガニスタン・イスラム首長国新政権を樹立しました。

こんな混乱の中でも、ペシャワール会はアフガン東南部の灌漑、農業計画を粛々と進めてきました。その成果は、何人も達成できなかった広大な砂漠の緑の沃野化、そのための大河クナール川での灌漑施設の建造、修復、強化とそれに伴う農産物の産生、人々の満ち足りた生活です。

哲が去って5年目の報告会が2024年11月16日、かつて中学生の彼が学んだ西南学園のチャペルで開かれました。私は、哲先生を支えてきたペシャワール会の正式メンバーではなく、その会が構築されつつあった初期、事業の現地ペシャワールで、いささかのお節介をした仲間にすぎません。むしろ、黙々と医を実践し、仲間を育て、事業を広げてゆく超人哲をささえつつ、毎日毎夜、銃声が響く異様な環境の中で乳児を含む3人のお子たちを育てられた令夫人のお手製の夕食にありついていた寄生虫みたいなものだったかと、冷や汗を流すこともあります。

しかし、不思議なご縁なのか、少し年長だったことが役にたったのか、哲先生がアフガンに進出する、井戸掘りを始める、狂気の流れのクナール川に堰を造る・・・それらの計画を外に出す前に相談を受けたというか、ぼそぼそと話されたり、何々を調べてほしいといわれたりしたことは事実なのです。実際、私が反対してもあなたはそれをやるでしょう・・・と申したこともありますし、今では、クナール川の堰とともに名前が知られるようになった筑後川の山田堰について多少調べも致しました。

16日の追悼会・・・いえ、かつての彼の講演ビデオが流れる中、今も、彼が白いお気に入りの作業服に、その昔から身体の一部になっていた愛用のチトラールハット姿でかの地で働いていると私は感じました。哲が去って5年も経つ・・・お集まりくださった四百数十名の方々は、皆さま、そんなお気持ちではなかったかと思います。

当日の会場の様子

最初は、パキスタンのハンセン病対策に従事したものの、そのパキスタンのハンセン病者の多くが避難してくるアフガニスタン難民であること、そして主たる目的であったハンセン病よりもはるかに多い他の感染症、栄養障害その他あらゆる病への対策の必要性から、隣国に医療活動を広げられました。そして世紀が変わる頃、アメリカを中心とする西側の襲撃の中で、迫りくる干ばつ対策が必須であると、地域改造に手を染められました。

久しぶりに、この集会の前に、ご自宅で哲先生の遺影に挨拶しました。
云いたくないけど、また、云っても仕方ないけど、今回も私はつぶやきました
「あなたはなぜ、逝ってしまったの!」と。

哲がなしたのは、何人と数えられる病者の医療だけではなく、その周囲で真摯に医療、井戸掘りそしてダムや堰の造成を学んだアフガニスタン人、パキスタン人そして日本人の養成だけでなく、彼が活動した地の文化への刺激・・・決して、彼が率先して文化を変えたのではなく、着実な成果を示すことで、人々が自ら何かを変えようとした・・・そしてそれが地域を作ったと、私は考えています。
だから、もっと長く生きて欲しかった・・・・

改めて、哲の冥福を祈ります。
そして、その活動に関与されてきたペシャワール会そしてパキスタンとアフタニスタンの方々のご健勝を祈ります。そしてアフガニスタンが一日も早く、安定し、平和で穏やかな国になって欲しいと切望します。哲先生、見まもってね。

講演の様子

(講演会に関する報道)
朝日新聞「中村哲さんの遺志、アフガン潤す事業続く 没後5年の催しも次々」2024年11月14日
朝日新聞「中村哲さん没後5年、アフガン人道支援は今も ペシャワール会が報告」2024年11月17日
読売新聞「中村哲さんの人道支援事業、ペシャワール会「全て継続できた」…没後5年を前に灌漑施設完成など報告」2024年11月17日
毎日新聞「中村哲さん死去まもなく5年 「原点」のハンセン病診療再開を検討」2024年11月16日