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沖縄

沖縄といえば、何を想われるでしょうか?

毎年、沖縄出身の学生がいた前職の日本赤十字九州国際看護大学ではクラブ活動の「エイサー」が活発だったこともあって、「オキナワ」を耳にすると、私はこの沖縄の伝統芸を想います。が、同時に、2004年春、同大学1期生とめぐった戦跡と沖縄県平和祈念資料館、その際に借りたレンタカーの地図で濃い色に塗りこめられていた基地の存在も胸痛く、複雑な想いを持ったことを記憶しています。その他、美ら海水族館、今帰仁村(なきじんそん)の石の城・・・今は、現職場の関係もあって、常に頭のどこかには、国立療養所沖縄愛楽園もあります。

今月、その沖縄に2回も参りました。最初は、16と17日に糸満市観光文化交流拠点施設くくる糸満で、琉球大学保健学研究科小林潤教授を大会長として開催された第39回日本国際保健医療学会学術大会・グローバルヘルス合同大会2024に出席するためで、2日目の最後「国際保健医療協力と新技術の展開」の座長を務めました。現在、第一線でバリバリの多様な演者の発する未来に向けた技術や考え方をうかがいながら、「過去」となっている私の役割は現役の方々が語られる未来への期待をのべること・・・と思いましたが、新しい技術・・・より考え方に感動しました。

その翌週、21と22日は読谷村(よみたんそん)文化センターで開催された社会福祉法人恩賜財団済生会主催の「誰一人取り残さない社会を目指して~障害者支援の課題とインクルーシブ社会~」と題する地域シンポジウムに出席しました。沖縄県障害者等相談支援体制整備事業中部圏域アドバイザーがコーディネートされたパネルディスカッションでは、中部圏に位置する読谷村、嘉手納町、北谷村の福祉の第一線担当者がそれぞれの取り組みや課題を、そして熊本県済生会福祉センターからは実態が発表されました。

第39回日本国際保健医療学会学術大会・グローバルヘルス合同大会2024
「誰一人取り残さない社会を目指して~障害者支援の課題とインクルーシブ社会~」シンポジウム

私ども日本財団在宅看護センターネットワークの各地の事務所でも、各地各様さまざまな福祉的問題があり、それぞれの事務所が各種専門機関や組織と連携したり反発したり・・・苦労している由は多々耳にします。が、ここ沖縄県の中部圏では、在宅/訪問看護がやや弱体なのか・・・福祉側からのご苦労をうかがいました。

さて、沖縄です。
第二次世界大戦のアジアでの戦いは「太平洋戦争」と呼ばれます。わが国は、理由原因の如何を問わず、その主たるアクターだったことは否めませんが、そもそもの第二次世界大戦は、1939年9月1日のナチス・ドイツのポーランド侵攻で始まりました。わが国は、ヨーロッパ戦線には中立と宣言したこともありましたが、追い詰められた中、軍部の好戦的意向もあったと思いますが、1941年12月の真珠湾攻撃に踏み切ってしまいました。そして、日独伊の枢軸国を除く世界を敵にしたかのような戦争を続けてしまいました。開戦わずか約半年後の1942年6月初頭のミッドウェー海戦でわが国は制空権と制海権を失ったとされ、その後は防戦一方というか、ずるずると最悪の状態に向かった・・・にもかかわらず、そのような情報は、当時、外には知らされませんでした。1944(昭和19)年頃、国防婦人会会長だった祖母らが、庭先にしつらえた藁人形に竹槍を突き立てる訓練をしていた姿をぼんやりと覚えています。

1945(昭20)年、本土各地への爆撃が増え、5歳だった私は毎夜の空襲警報のサイレンとB29(ボーイングB29スーパーフォートレス、米軍の大型戦略爆撃機)という見たこともないものに怯えました。そして・・・その頃、1945年3月26日、アメリカ軍が沖縄本島に近い慶良間諸島に、そして4月1日は沖縄本島に上陸したのだそうです。

沖縄県公文書館資料(沖縄県公文書館所蔵)

沖縄の中部圏に位置する読谷村の壮大なリゾートホテルに泊まりました。
沖縄本島に上陸した米軍は、「嘉数(かかず)の戦い:1945年4月8日から16日間、嘉数高台をめぐって戦われた沖縄戦最大級の戦闘」や、6月以降の主に南部での壮絶な攻撃の後、1945年6月21日に沖縄占領を宣告、わが国唯一の地上戦であった沖縄は6月23日にすべての戦いが終わりました。その米軍においても、多数の犠牲者が出た沖縄上陸が、この読谷辺りだったこと、すでに80年・・・3世代も経ったのだから、今の若者がそれを知らなくても良いのかもしれませんが、朝、ホテルの庭先を歩きながら、そしてはるかかなたの水平線上にみえる巨大な船影にも、少しモヤモヤを感じました。私は、戦争を実感した最後の世代だと思います・・・

1951(昭21)年9月、わが国はサンフランシスコで連合国側52か国(ソ連、ポーランド、チェコスロバキアは不参加)が参加し、48か国が調印した対日講和条約では、朝鮮半島の独立、台湾・千島・南樺太などかつてのわが国の海外領土の放棄とともに、沖縄・小笠原がアメリカによって信託統治されることがきまりました。

そして沖縄はアメリカの施政権下となり、米軍基地がおかれたのです。戦後間もなくの朝鮮動乱、その後のベトナム戦争と、世界で事あるたびに沖縄の基地は忙しくなっていました。現在では、いくばくか返却されたとはいうものの、なお、タクシーのカーナビにも、濃い色の、そこには入れない地域がありました。この基地、米軍基地をめぐる問題・・・複雑に見えます。地元の人々にとって、基地がない方が良い!とも言い切れない状況があり、それは軽々しく、部外者の私が云々できないことは、かつての看護大学の卒業生からも、現在の笹川保健財団が行っている日本財団在宅看護センターネットワークの沖縄で起業している仲間との対話でも感じることがあります。

ここ数年、新型コロナ嵐に被さるように広がってきた世界の不穏さ・・・沖縄はその地の安全や経済、地域発展のみならず、日本の、そして東アジア・・・世界の安定にも関わっているとも思えます。よく言われることですが、日本全体の中にある米軍基地の90%は国有地に存在するそうですが、沖縄県の場合は、国有地内の米軍基地は33%、半分以上が民有地内にあることも基地反対運動の理由だそうです。また、日本にある基地の70%以上が、沖縄県にあることも問題・・・ただ、総論賛成、各論反対ですが、どなたも自分の近くに基地が来ることを受け入れないまま、ハンタイ!!といっても説得力がない・・・のですが。

カーナビの塗りこめられた基地

私の2回の沖縄訪問・・・微妙な感想でしたが、次回は少し観光を書きます。

ホテル前のシーサー
読谷村役場のシーサー