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Chair's Blog 会長ブログ ネコの目

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オオタカラヅカ!!―その1

先週末、郷里宝塚に参りました。両親の法事でした。

高校卒業までは、本籍・現住所とも宝塚でした。大学生時代は短期間下宿した後、その昔の典型的ブラック職場でもあった新米医師時代は、母方の縁者宅で居候生活し、少し生活が安定した後は、大阪城が見えるマンションにて独立しました。その後、箱根を超えて東京に移動し国際稼業に入りました、内外を転々し1年程度を含め17職場で働き、引っ越しもそれくらい致しました。

すべての住所を覚えてはいませんが、一番印象的な地名はパキスタンです。当時はNorth-West Frontier Province(北西辺境州)と呼ばれていた現Khyber Pakhtunkhwa(ハイバル・ ハクトゥンクワ)州の州都Peshawar(ペシャワール)のUniversity Town(大学町)のShahibdaza Abdul Kayum Road(シャヒブダザ・アブダル・カユム通り) 30XX番地です。当時有名だった原理主義ムジャヒディーンのボス宅の近くでした。地名は人名由来ですが、どんなお方であったか判りません。その頃も現在も本籍は宝塚です。余計なことを申しますと、ペシャワールの辺り・・・確かにビクトリア女王治世下の大英帝国が支配する英領インドからみると北西の地にあって、辺境ではあったにしても、ちょっと失礼な命名ではないか、と私は思っていました。

さて郷里の宝塚は美しい名前です。
その由来です。市の歴史をみますと「そもそも宝塚は古く縄文弥生時代から人々が住んでいた土地で、200基をこえる古墳がある。1701年に岡田渓志が編纂したとされる地誌「摂陽群談」に、「宝塚・・・この塚のそばで物を拾うものは必ず幸せあり。このことによって宝塚の名がついたといわれる」と書かれています。私が小学生の頃・・・大昔、祖父から聞いた話も似ていますが、名前は忘れましたが、ある寺院に存在する塚、古墳から何やら宝物が見つかったので、そこを宝の塚とよんだ・・・それが地名として広がったと聞きました。

第六次宝塚市総合計画から
住宅で埋まっている地は、かつては田んぼだった・・・(宝塚市HPより)

国際保健で転々した時代、あちこちの仕事仲間とそれぞれの郷里を話題にしたことがあります。日本では、何処が、何が知られているか・・・地名では、トウキョウ、オキナワ、ヒロシマ、ナガサキは絶対、2011年以降、フクシマが加わりました。奈良、京都、鎌倉、日光はやや年配者、サッポロ、ニセコなどは雪、スキーでしょうか。何度も訪日している方々のみならず、若い女性に温泉好きもいます。「温泉の素」を持ち帰りたいけど、少し硫黄のにおいがするので爆薬と勘違いされるので無理という話も聞きました。

てんぷら、すき焼き、サシミは意外と話題にならず、寿司、照り焼き、和牛、おにぎり好きもおいでですが、多くの方が絶賛するのはお弁当です。学会や会議のランチに、色々なお弁当が並ぶと、皆さま、一斉に写真撮影されます。ある高名な感染症学者は「柿の種」が好物。

さて宝塚は何といっても宝塚歌劇が有名です。私は地元民ですが、あまり熱中したことはなく、多分、あまりに近くて価値が判らなかったのかもしれません。子ども時代にお使いに行った先の市場では、越路吹雪、扇千景・・・(古いですね)といった、当時でも有名なスターが野菜を買っておられました。もっと身近な記憶は、小学校同級生の大邸宅にかなり有名な宝塚スターが下宿されていました。その同期生で、後に映画界でスターになられた方と、大邸宅でかくれんぼをしたこともあります。昨今に比し、何とものんびりした時代でした。

古い宝塚大劇場(「戸板康二ダイジェスト」ブログより)

その本拠である宝塚歌劇場そもそもは、1911(明治44)年に「宝塚新温泉パラダイス」として生まれ、翌1912年には食堂や演舞場、国内初のプールが増設されたそうです。でも男女一緒の遊泳は禁止だったとか・・・男時間とか女時間だったのでしょうか?で、1923年の火災の後、1924(大正13)年には、4,000人規模の宝塚大劇場となったのです。同時に各種遊戯施設が設置された遊園地「ルナパーク」も完成、さらに1928年(昭和3)年に「大植物園」、次いで図書館や屋外プールも加わり、温泉・歌劇・動植物園と遊戯施設が揃った、現在でいうところのハウステンボス、ディズニーランドやユニバーサルスタジオジャパンとでもいったものが、鄙びた村に出来上がったのです。以後、この街は、それが故に有名になったと思います。

私は動物園と植物園は好きでした。受験勉強をしていた1950年代末、夜な夜な、アシカの鳴く声が風に乗って聞こえました。ワニやとぐろを巻いた大蛇!アフリカパイソン?たちが狭い棲み処にすくんでいたのをちょっとかわいそうと思ったり、比較的大きな猿ヶ島ではたくさんのおサルたちが賑やかに追いかけていたのを飽きずに眺めていたり、大きな檻が三つ並んだライオン、トラ、豹?の棲み処の前で彼らの咆哮を待っていて、もう少しでオシッコをかけられそうになったりしたこともありました。
動物園は、一面、動物迫害の場ではありますが、教育的にはあって欲しい、動物の居住環境整備は考量してもあって欲しい・・・です。例えば、アフリカの大自然で暮らす動物が、時々、出張で日本に勤務する・・・駄目でしょうか?

その昔の植物園(宝塚温泉HPより)

もはや戦後ではない!とされた1960(昭和35)年、宝塚新温泉開園50周年に、すべての施設が「宝塚ファミリーランド」となりました。1979年、最大来場者数は年間354万人と記録されています。その後もこの一大エンターテイメントゾーンは変化を続けましたが、各地のディズニーランドを始めとする各地のアミューズメントパーク開園や多様なレジャーの手段、そして何よりも子どもの数が減少したこともあって2003(平成15)年に閉園されました。一帯にはマンションなどが林立しています。その一角に手塚治虫記念館があります。

マンションといえば、私が生まれて初めて食事をしたホテルは1926(大正15)年創業の宝塚ホテル、その場所には今は瀟洒な高層マンションが建っていました。思い出が消えて、ちょっと悲しい・・・・

宝塚ホテルは、阪急電車今津線宝塚南口の駅前でした。第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍最高司令官本部)施設として接収されたそうですが、当時の国民はホテルなどに行くことなど考えもできませんでした。亡父は川辺郡小浜村川面〈かわも〉とよばれる古風な土地柄の、いわゆる旧家を継ぎました。田舎の長男の宿命です。なぜか洋物好みでした。戦後、名前は定かではありませんが、「モーターズ」といったような自動車雑誌や「リーダーズ・ダイジェスト」それに「スクリーン」という映画雑誌などを購読していました。戦後の早い時期に、ベンツやイギリスのスポーツカーMGの中古品を乗り回していました。ひょっとすると、当時の最も近い大都会大阪の小さな工場主の末っ子で、大正元年生まれながら、樟蔭女子大学を卒業していた母の影響もあったかもしれません。相当古風な川面ではトンでいた夫婦だったかもしれませんが、土地の古い伝統行事には、きちんと従っていたように思います。

宝塚ホテル旧館 木の幹の後ろ辺りに、半地下のコーヒハウス用のレストランがあった・・・その窓際で、生まれて初めてナイフとフォークを使った!(ウィキペディアより)

そんな中で、私が小学4年生の頃・・・昭和24、5年、ホテルで食事をする練習が要る!といって、私たち子どもをホテルに連れていってくれました。戦争前、銀行に勤めていたからか、本来がそうなのか、子どもから見て、ややケチ!なところ、言い換えれば経済性の高い性格でありましたので、ホテルにはまいりましたが、2階の立派なレストランではなく、半地下の、いまでいうコーヒハウス的コーナーで洋式ランチを生まれて初めてナイフとフォークを使って食べるという経験をしました。でも、食事マナーを早い時期に身に着けておくことはとても大事です。国際に入って、両親のマナー教育には大いに感謝したものです。

地元ホテルにわざわざ泊まることはなかったのですが、宝塚ホテルは新設された宝塚歌劇場の隣に移転していました。

宝塚ホテル(左)と宝塚大劇場(右)とマンション群

私にとっての宝塚は鄙びた農村、穏やかな自然の広がる、やや、のんびりした古い村のイメージですが、歌劇場とホテルの辺りは、ウ~ン、これはthe TAKARAZUKA!ディズニーランド風の、やや現実離れしたバーチャルな面影でした。でも一度、新設宝塚ホテルに泊まりたいと思いました。
次回は、その他の宝塚をご報告します。