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オオタカラヅカ!!―その2

宝塚と言えばタカラヅカ歌劇なのですが、そもそもは、阪急電車を敷設した小林一三という企業家の作った街ともいえます。もっとも古来の農村部分は、なお、緑豊かなのですが、久しぶりに訪れた郷里はすっかりマンション街でした。

物心ついた頃から見慣れているあずき色の阪急電車、その終点が宝塚、そしてその近くには現在のJR宝塚線、その昔の福知山線の駅もありました。やがてどこに行くにも乗る阪急電車は大阪梅田駅から京都、神戸、宝塚の3方向に走っていると知りましたが、そもそもが、阪鶴鉄道だと知った時、「阪」は大阪として「鶴」はどこのことかと思いました。

1910(明治43)年3月、梅田‐宝塚間とその中間にある石橋駅から箕面への短い路線が同時開業したそうですが、その3年前の1907(明治40)年に「阪鶴鉄道」を買収して箕面有馬電気軌道という新しい鉄道会社が設立されています。この「阪鶴鉄道」は明治の富国強兵政策の一端でもあったのでしょうか、1890年代後半、尼崎の港から大阪府の池田駅(現川西池田駅)間を結んでいた摂津鉄道を買収して、さらに京都府福知山を経て、既存の鉄路を活用して舞鶴に至る構想だったそうです。つまり日本海側と瀬戸内海側を結ぶ構想だったのですが、既に官営鉄道が走っているところはダメ!とのお上のご意向で成就しなかった・・・「鶴」は舞鶴でありました。もし今、この路線があれば・・・その後の湖北線とかはできなかったかも、ですね。

でもその、ダメの代わりが、当時の川西池田駅より分線してすでに都会だった梅田へ乗り入れた、それが現在の阪急宝塚線、梅田、石橋、池田、宝塚なのです。

画期的なことは、京阪神地域では既に稼働していた阪神電気鉄道(1904年)、神奈川県の京浜電気鉄道(1899年)にならって、けむりポッポの汽車でなく、新たに発展しつつあった電気で軌道を走る車にした、先見の明です。1906年に特許を得た箕面有馬電気鉄道は1907年10月創立総会で小林一三が専務取締役となり、3年後の1910年3月10日に梅田‐宝塚間と石橋‐箕面間が開通しました。当初の計画、有馬への敷設は、当時の恐慌もあって、また、採算性もあって・・・実現しなかったのでしょう。

阪急電車が走った!が、大阪、神戸という二大都市を結んでいた既設の阪神電車に比し乗客は少ない、当然でした、当時の宝塚線沿線は良くいえば田園地帯、ま、農村地帯ですから、人々は電車に乗って出かけるのは稀でした。

そこで企業家小林一三です。1929(昭和4)年、梅田駅に世界初のターミナルデパートを開業しました。当時、以前は呉服屋だった三越や大丸が百貨店化していたそうですが、鉄道会社が百貨店を経営するなど!でした。が、それをきっかけに色々な小売部門が生まれ沿線が住宅地化しました。さらにその住民のニーズが生まれました。今でいうマーケットなどの流通事業や住宅地開発そして宝塚歌劇団・・・

宝塚歌劇団の初公演は1914(大正3)年、女性だけが耳慣れないレヴューを演じる華やかで楽しい夢のような一日を過ごせる場は、現在もそうです。「清く、正しく、美しく」の標語のもと、2年間の厳しい訓練を経たタカラジェンヌはオールマイティの芸能スキルを修得しています。私の中学の同級生の一人が入団しましたが、イヤハヤ、好きだけでは続けられない才能を要する世界だと思いました。

ふと思い出したのは、歌劇場の近くには、新劇風の出し物や漫才を演じる中劇場、小劇場?もありました。モリミッチャンこと、森光子も芸を磨かれた場、そして地元に住まれた方もありました。漫才で一世を風靡した秋田A助B助のBちゃんのお連れ合いの実家の理髪店は有名でした。タカラジェンヌから映画演劇界に転身ご活躍される方も多くTheタカラヅカは全国区の地名です。

その他・・・という言い方は不適切ですが宝塚には有名な社寺があります。自宅から近いところでは、神仏混交の清荒神清澄寺、火の神様がおいでです。毎月27、28日がお参り日だったか、商売の神様でもあり、大阪辺りからのお参りが多かった記憶があります。

荒神さんの山門(清荒神清澄寺HPより)
荒神さんの境内(清荒神清澄寺HPより)

その荒神さんには、明治大正時代の文人画家にして儒者、画聖富岡鉄斎(とみおかてっさい1837‐1924)の作品、業績を保存する鉄斎美術館「聖光殿」があります。私が子どもだったころは、荒神さんの一隅の普通の建物に掛け軸などが飾られていたような記憶がありますが、信徒から贈られた鉄斎の作品に感銘を得た清荒神清澄寺第37世法主坂本光浄師が生涯をかけて集められ、通称鉄斎美術館ですべてが保存され広く公開されています。

神社仏閣も国際的!!荒神さんのお知らせ(清荒神清澄寺HPより)
作 富岡 鉄斎 (左)仙縁奇遇図 1919年、(右)艤槎図 1924年(ウィキペディアより)
鉄斎博物館 清澄寺(清荒神清澄寺HPより)

私がテッサイさんを知ったのは、お使いで行った近隣の旧家でした。とても品の良い白い眉のオジサマがうやうやしく広げておられた軸を説明してくださいましたが、超異文化・・・何のことかも判りませんでしたが、今思うと猿の惑星とかの世界みたいな・・・
そのオジさまや祖父は坂本光浄師とも面識があったようですが、本当か嘘か判りませんが、光浄師がテッサイさんから書き損じをもらってこられて、それを近隣の旧家信徒に差し上げられたといった話をしていました。

もう一つのお寺は西国三十三カ所巡りの第24番札所の紫雲山中山寺、真言宗です。聖徳太子が建立(こんりゅう)されたともいわれていますが、ご本尊は十一面観音菩薩ですが、安産のお寺としてとても有名です。豊臣秀頼も、秀吉が中山さんにお参りして生まれたといわれています。安産ダケでなく不妊にも効果がある??

その昔の妊婦さんは、毎月の戌(いぬ)の日に中山サンにお参りして、腹帯をいただくこと、そして赤ちゃんの名前を付けてもらう・・・のが通過儀式のようでもありました。お寺・・・といえばお葬式ですが、中山寺は生まれる方で、大阪の国立病院で新生児を扱っていた頃は、毎週、中山サンの名前を耳にしたものです。でも、それ以上にこのお寺の仏像も印象的です。確か、ご本尊以外・・・両脇の脇侍も十一面観音で、お三方をあわせて三十三面になる、と聞きました。

紫雲山中山寺 山門(大本山 中山寺HPより)

そもそも三十三とは、観音経を解かれた観音菩薩が三十三変化されたことからきていますので33カ所巡りなのですが、中山寺なら一山で33カ所をめぐったと同じ功徳が得られるといわれるわけです。宝塚を離れるまで、お盆8月13日から15日の夕べは一家が仏壇の前にそろって御詠歌を詠います。中山さんは、「野をもすぎ 里をもゆきて 中山の 寺へ参るは 後(のち)の世のため」で、全部で33番ですが、ここで一服、お供えのおさがりをいただく楽しみがありました。

今では住宅地になっているかと思いますが、清荒神から山伝いに中山さんに至る、今風に申すとトレッキングルートがありました。もう無理でしょうか、秋の紅葉の頃にたどってみたいものです。以上、両親の法事で、久しぶりに帰った郷里宝塚のご紹介でした。