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Chair's Blog 会長ブログ ネコの目

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病気の治療CUREと療養CARE 2冊の本から考えること 『透析を止めた日』堀川惠子著と『抗がん剤を使わなかった夫~すい臓がんと歩んだ最期の日記~』倉田真由美著

がんの告知。
その昔に比べると、病名告知や予後の説明、ACP(Advance Care Planning 終末期のあり方を本人と関係する人々が繰り返し話し合い、共通理解をもって本人の意思決定を支援する取り組み。通称人生会議)など、ひと昔前までの医師のパターナリズム(インフォームドコンセント〈医療行為開始前に、患者が医療者から十分な説明を受け治療内容を理解した上で同意する過程。患者の自己決定権尊重と医療行為への同意明確化のための重要な過程〉と対照的な概念。医師が患者の利益のためとして患者の意志にかかわらず治療や処置のあり方を決定すること)が当たり前だった時代とは一変しています。

死期が何時、どこで、どのようにではなく、最期まで尊厳をもった一人の人間としての生き方を尊重し適切な医療が行われるべきだとの考え方は時代の流れとして広がっていますし、個々人が自分の死にざま、そして生き様を考えることも大事だとの理解もあります。が、その際、患者つまり医療の受け手と医療の行為側が使う言葉に共通の理解があるのか・・・そんなことが時々気になります。とは申せ、私自身、医師になって20年間は「臨床=実際の診療の場」にどっぷり浸っていましたが、その後、ベッドサイドを離れて検査医学に移り、さらに異国での国際保健、その後は看護教育にと転々しましたので、元医師ともいえない長い日々を送ってきました。

医療従事者の間や時にメディアで“CUREキュア”と“CAREケア”という言葉が使われます。キュアは病気を治すこと、治ること、厳密には治癒することを意味し、ケアはキュアをも含め医療や看護・介護を必要とする人々を身体的精神的そして社会的にもスピリチュアル霊的・・・ちょっと?ですが・・・にお世話する、心配することを云います。

『透析を止めた日』は、いくつもの賞を受けられたノンフィクション作家 堀川惠子氏が、パートナーの人一倍過激な社会活動を維持し続けつつ生きて行くための治療=血液透析の経過を深く洞察された書として拝読しました。めぐり会われた頃に既に血液透析患者だったパートナーの生活は38歳時の透析開始時から制限付きだったのですが、それが故に社会活動を低下させない・・・その葛藤がありました。腎臓の機能はヒトが生存するための体内代謝で生じた諸々の老廃物や電解質を取捨選択し尿中に捨てたり拾い直したりすることです。口から摂取する量にも過敏であり、食べたい飲みたいとの葛藤。痛い、辛いことがあれば我慢もできますが、ほどほどの元気さの日々では何をどの程度制限するか、パートナーの健康をいかに上手に御するか、ちょっと息詰まる感もありました。

透析効果が順調な時期、それが困難となり不可能となり、腎移植の検討と実際の腎移植。10年ほどの安定期の後の移植腎の機能低下と血液透析の再開。そして透析断念後の最後の1週間が壮絶な終末期でした。そもそも先天性腎嚢胞症という難病、その病変が肝臓にも及んだこと。普通の人なら、闘病一色になりそうな日々ですが、透析を行いつつの激務。も少し、生き続けることだけを目指されなかったのはなぜか・・・と俗人は思います。血液透析よりマイルドな腹膜透析をご存じなかったことや最期の日々にも緩和ケアが活用できなかったことへの苛立ち、医療側の不適切な対応への不信感が記載されています。

拝読して滅入りましたが、それは置いて申したいことは、これはキュア=病気を治すこと、根治療法の話ではなく、あくまで対症療法にすぎない血液透析の限界だったのかとも思います。なら、ケア=病気を治しきらないまでもその時々の問題、苦難とどう折り合いをつけるか、病者側(の総括的な苦難、問題)への医療側の介入が見えづらいと思いました。ともに知的レベルも社会的立場も高いカップルだったけど、信頼できる医師との関係が途絶え、求めた適切なセカンドオピニオンや代替治療への道も開けなかった。序章には「夫の全身状態が悪化し、命綱であった透析を維持することができなくなり始めたとき、どう対処すればいいのか途方に暮れた。医師に問うても、答えは返ってこない。私たちには、どんな苦痛を伴おうとも、たとえ本人の意識がなくなろうとも、とことん透析をまわし続ける道しか示されなかった。」最後の最後に緩和ケアも利用できない・・・終末期には医の技術だけではない何かが必要なことが多々ありますが、緩和ケアがあれば、すべては解決しただろうかとの思いもあります。しかし、割合、緩和ケア関連の医療者とお付き合いがあることもあって、こんな悲惨なことが実際にあるのかと思うと同時に、医療側との対話や交流は如何だったのか、いささか気になりました。しかし、「なぜ、矛盾だらけの医療制度を誰も変えようとしないのか。医療とは、いったい誰のためのものなのか。」この問いかけは真摯に反芻する必要はありましょう。

もう一冊は、倉田真由美氏、通称クラタマさんの『抗がん剤を使わなかった夫~すい臓がんと歩んだ最期の日記~』です。すい臓がんとの診断を知りながら、パートナーは根本治療であるキュア手段の化学療法を拒否されます。オッ!これは初めからケアの世界です。

すい臓がん!!
2022年5月、夫の「顔や体が黄色くなる」ことから始まったと書きだされた「すい臓がん」患者の、ご家族による包括的ケアの記録です。この書を拝読する前には、今年1月に亡くなった経済アナリスト森永卓郎氏の経過があります。90キロの体重が半分近い50キロまで落ちたものの、最後まで意気軒高なお姿を見せておられました。最初、ステージ4のすい臓がんと発表されましたが、後に原発不明がんとされました。つまりどこに最初のがんが発生したのかは不明ながら、すい臓のがんとして診断され、その時には「来年の桜を見ることは難しいかも」とされながら余命期間より10か月も長く生きられ、活発な社会活動や著書もだされました。

がん治療=がんの根治が病気を治すことと考えられてきたこれまでのあり方に、でっかい一石を投げられたと思います。そしてそのことはキュア=病気を治すこととご本人の生活の質(QOL Quality of Life)のどちらを取るか・・・を再考させるものと思います。

クラタマ氏が仰せのように、パートナーが自分の生き方と治療のあり方をきちんと判断されることが、「自分らしく生きること」なのです。が、私たちはその判断を医師に丸投げした結果として治療の中に埋没してしまうのが通常です。治療と生活の両立というより、まず、生活ありきの上での治療だと痛感させられました。

クラタマ氏のパートナーも森永氏も死の前日まで仕事をなさり、ご家族と対話されています。もちろん何もない、健康だった頃に比べると、ハラハラドキドキすることや対話だっただろうことは想像に難くはありませんが、痛みに打ちひしがれた状態ではなかった・・・最期の時間をご家族とともに過ごされたということは予測以上に長かった生存期間とともに「無がん治療」の効果であったように思えます。逆に深読みすると、何もしないことが体力を温存し、QOLを維持し、それががんに対する抵抗力を高めたのかもと思います。医学的に証明される日があるでしょう。

化学療法が進歩した現在、日本で「抗がん剤」を使わない選択は少なく、医師から手術は難しいけど化学療法「抗がん剤」は出来ると言われて、「結構です」と云える人はどれほどおいででしょうか?

クラタマ氏のパートナーはほんのわずかの揺らぎもみじんの迷いもなく、手術も抗がん剤治療も一顧だになさいませんでした。今まで通りの生活を継続すると宣言し、実践されました。さらに申しますと、健康には良くないようなファーストフードというかジャンクフードをモリモリと召し上がり続けられます。少々体調が悪くとも、どこそこのなになにが食べたい!!と仰せになると、お忙しいであろうクラタマ氏がいそいそと買いにゆかれる・・・

1年9か月という期間が長かったとは申せませんが、著者は仰せです。「自分の命や人生の在り方を決めるのは本来自分自身のはず」なのに、「多くの場合、日本ではがんが判ると、自分の死に方生き方を医者に丸投げしてしまう。」「そうじゃない生き方ができること、何をして何をしないか自分で決めてもいい‐そのことに気付いて欲しい」と本書を書かれ。拝読して思ったことは、「自分の生死を“自分で選ぶ”という当たり前のことを知らないままの人が多い」こと。がん中でも「がんの王様」とされる「すい臓がん」になりながら、抗がん剤治療を自らの意志で拒否されたパートーの生き方、尊敬します。

最後の日、最後の瞬間です。「私は家でみとったので、本当に最後の息までみてるんですよ。次の呼吸がないから、“父ちゃん息して”って最後に声をかけた。本人も“家がいい”って言っていたし、それがかなったので」とお書きです。こんな臨終の場、ご夫婦の絆・・・言葉になりません。

そしてクスッとなったのは次の一節、「亡くなる前日の昼に、“コンビニのチキンの新作を食べたい”と仰せになったので、それを買いに行かれたのですが、それが無くて普通のやつをお買いになった。」で「新作がなかったからまた買ってくるよ」とおっしゃった。彼もちょっと残念がって「食べてみたかったな」と言って普通のやつを召し上がったけど、それが最後になった。だから「コンビニを何軒も回って買ってあげられたらよかったな、食べさせてあげたいものはいっぱいあった」と涙ながらに語られたこと、死が日常生活の中に大きな跡を残しています。多分、今も、クラタマ氏は、その新作チキンをご覧になると、この対話を思い出されるでしょう。うらやましぃ・・・なんと素晴らしい終末期!!

キュアは専門家を要しますが、ケアはレベルによって、誰でも、ご家族でないとできないこともあります。キュアとケア・・・どちらも難しいのですが、ケアこそ奥深く、難しいと思います。