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Chair's Blog 会長ブログ ネコの目

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戦後80年のヒロシマ

暑い暑い日が続きます。
その中、わが国の敗戦に終わった第二次世界大戦が終結してから80年のヒロシマ・・・そしてナガサキです。昨日8月6日、ヒロシマでの記念式典をTVで拝見しました。

あの日、1945年8月15日、幼稚園児だった私にもとても異様な雰囲気を感じたのは、自宅近くの小学校の校庭でした。ラジオから流れたのは昭和天皇の、いわゆる玉音放送でした。普段、校長先生がその上に立ってお話をされる朝礼台の上にラジオがおかれ、ガーガーピーピーの雑音が混じる中で、陛下の少し甲高いお声が流れていました。子どもには中身は判りませんでしたが、軍刀を抜刀して整列していた兵隊さんたちが肩を震わせて泣かれていました。

「広島で平和記念式典 参列者の思いは」NHKより

8月6日の午前8時15分、操縦士の母の名前「エノラ・ゲイ」と名付けられたB29から投下された史上初の原子爆弾は、無辜の民の住む広島上空でさく裂しました。科学の進歩で生まれた兵器・・・科学は何のためにあるのか、政治家の言い分と科学者の言い分には違いがありますが、新しい強大な破壊力を持つ兵器を開発するために、ともに力を合わせた事実もあります。

かつて紛争地勤務した頃に買い求めた『戦争報道の内幕』という本を思い出しました。

かのナイチンゲールが現地で活躍したクリミア戦争(1853‐56、ロシア帝国とフランス・大英帝国・オスマン帝国とイタリア北部の小国サルディニア公国が戦った)からベトナム戦争(1955‐75、 社会主義の北ベトナムとアメリカの傀儡ともされた南ベトナムが戦った)までの約100年の戦争の報道の内幕を記した大著ですが、ヒロシマがどのように報道されたのか読み返してみました。

文庫版の345ページ「広島の悲劇はこう伝えられた」には、あたかも日本の敗因は、「日本の生死にかかわる石油供給がアメリカ海軍によって完全に断たれた」という「古典的な戦略戦」にアメリカ海軍が圧倒的勝利したのに当時はまったく報道されなかった。「1942年に40%だった南方油田からの石油輸入は45年にはゼロ・・・これこそが日本を敗北に追いやった・・・原子爆弾、ソ連軍の参戦、幾多の大海戦があってもなくても、日本はすでに勝利の望みを断たれていた。艦隊、飛行機、戦車、車両などは、燃料がなかったから動けなかった」とあります。

「戦争報道の内幕―隠された真実」中公文庫版 2004年
「戦争報道の内幕―隠された真実」時事通信社版 1987年

原爆・・・政府=軍中枢の作戦であり、また、その開発から厳重に秘密であり、映画『オッペンハイマー』で描かれた1945年7月16日のニューメキシコでの実験さえ、何の変哲もない出来事としてのんびりと報道されたと記しています。しかし、8月6日のヒロシマへの原爆投下は秘密には出来なかったので、原爆投下16時間後、トルーマン・アメリカ大統領が原爆投下と爆弾の性質を明らかにしたと記載されています。「これは宇宙の基本的な力を利用したもので、太陽の原動力の根源から引き出された力が、極東に戦争をもたらした国に放たれたのである」と。

8月8日、ラジオ・トウキョウも爆弾の効果をいくらか説明し「爆弾の衝撃力は強大で、すざましい高熱と爆風により、実質的にすべての生き物は、人間も動物も文字どおり焼け死んだ。」と。日本人で、同盟通信広島支局員中村敏は、現地で生き残り、出来る限りの情報を集め、最初の目撃記事を書いています。「原子爆弾であったかもしれない・・・」とも。

しかし、「広島の惨状は、日本が「降伏」して三週間、広島から約1か月たった9月上旬になっても、長崎を含め、日本の二つの都市に投下された原爆の効果について西側特派員の書いた記事は現れなかった。」それはその後の数年、日本を支配したGHQのマッカーサー将軍が全域を報道関係者の「立ち入り禁止地区」に指定し、さらに報道の検閲を強化していたから・・・とあります。

「広島の原爆被害」Yahoo!ニュースより

9月3日、『ロンドン・デイリー・エクスプレス』の特派員バーチェットが、東京から21時間汽車に揺られて広島入りし、記事を(現地に残っていたのでしょうか)同盟通信社支局に渡し、これがモールス信号(その昔、短点〈・〉と長点〈-〉を組み合わせ文字や数字を符号化し、無線で情報を伝達した)で東京に、さらにそこからロンドンに中継され、外国人による初めての広島の惨状の報告が伝えられました。が、同日遅くにアメリカ空軍機で広島入りしたアメリカ人特派員と同行した空軍大佐は、先入りしていたバーチェットに不快感をしめし、その記事を受け取らなかったとのこと。

そのバーチェットの初の広島報告は、残酷な個所を削除された後、9月5日に『デイリー・エクスプレス』に歴史的独占記事として掲載されたそうです。「広島では、最初の原子爆弾が市を破壊し、世界を震撼させて30日が過ぎたが、今なお人々は不思議にも、恐ろしくも死に続けている。爆弾では負傷していない人びとが、何かわからないもの、私には原子病として呼びようがないもので死んでゆくのである。広島は爆撃された都市には見えない。巨大な地ならしローラーが通り過ぎ、すべてを踏みつぶして破壊させた市のように見える。私は、これが世界への警告として届くように、事実をできるだけ淡々と描いている」

戦場にジャーナリストが入った最初はクリミア戦争時のナイチンゲールを報道したアメリカ人記者とされていますが、どの戦場のどの報道も、政府や軍の検閲や宣伝活動その他の制約によって脚色されることは否めません。この本は、クリミア戦争からベトナム戦争までを検証していますが、原爆に関しては、この広島の記事しか取り上げられていません。しかし、この記事が出た後、アメリカ軍当局は東京で、記者会見を開き「放射線病のようなものはない!」と反論し、バーチェットは「日本の宣伝に利用された犠牲者・・・」と非難しています。真実を知ること、それが次の過ちを防ぐことにつながり、進歩をもたらすことは規模の大小、戦争であれ医療であれ同じことです。

式典では、毎年、いくつか心にささるシーンや言葉があります。今年は、石破首相のご挨拶、その最後に『「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」にある歌人正田篠枝さんの歌を万感の想いをもってかみしめ、追悼の辞と致します。』とされました。(「石破首相あいさつ全文 広島市平和記念式典」JIJI.COMより、石破首相挨拶【全文】広島ニュースTSSYouTubeより) 

『太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり』 。

もし私が、ヒロシマに生まれていたら、その小さき骨であったかもしれません。

「石破首相あいさつ全文 広島市平和記念式典」JIJI.COMより

歌人正田篠枝は、「原爆歌人」であり平和運動家ですが、爆心地から1.5キロメートルの地点で被爆し、原爆や被爆を詠うことはGHQに見つかれば死刑とも言われる中で、密かに歌集を出版されています。歌の力、文学の力は政治や検閲を超えて生き、そして私たちに訴え、鼓舞します。正田篠枝は、1965年、私が医学部を卒業した年、原爆後遺症であろう白血病と乳がんで亡くなっています。

改めて、ヒロシマの犠牲者を悼み、原子力兵器の廃絶と戦争という愚かな行為を即刻やめるべきと声を大にします。