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悠仁親王殿下の成年式

2025年9月6日、秋篠宮家 悠仁親王殿下の成年式が行われました。遅ればせながら、おめでとうございました。

色々ご意見はありますが、40年ぶり、男性しか継承できない天皇制、そしてそれに向けての成年式、その一部始終がTVで放映されることも時代の流れでしょうか。8世紀の平安時代から1300年も続いていますが、そんな歴史ある成年式を持っている国って、他にあるでしょうか?

余計な一言が許されれば、お雛祭りの内裏様のような悠仁親王殿下、男性に向ける言葉ではないのかもしれませんがまことにお美しく、まことにノーブルなお姿でした。

式のハイライトは「加冠の儀」。儀式のはじまりは、尾を引いたような長い裾の闕腋袍(けってきのほう)と呼ばれる浅黄色の未成年男性皇族用装束に同じく未成年皇族が着用する空頂黒幘(くうちょうこくさく)という額あて姿でした。浅黄色と黒・・・闕腋袍の襟からのぞく赤色は大口袴と呼ばれる下着とのこと、きっぱりとした色合いでした。

しずしずと進行する式・・・
天皇陛下から賜られた成年用の冠を頂かれる儀式の最主要なところは、何とクローズアップで拝見できました。

東北で撮ったお内裏様の男雛

空頂黒幘がはずされ、瞬時21世紀風青年のお顔とお見受けしましたが、成年用の「冠」が恭しく殿下の頭に置かれますと、また、平安時代・・・源氏物語のような雰囲気です。「冠」は特に許された人が参内(さんだい。宮中、朝廷、内裏に参上すること)する際のかぶりもので黒の羅(うすもの)でつくるとあります。その「冠」が和紙を紙縒り(こより)状にひねってつくられた白い紐である懸緒(かけお)で固定されます。殿下のあごの下で結ばれた懸緒の余った部分が和はさみで切り落とされる際の「パチン!」という音が響きました。

冠各部の名称(綺陽装束研究所HPより)
悠仁親王成年式関係儀式行事等一覧(宮内庁HPより)

昨今、庶民の成人式はややにぎやかすぎて、時に顰蹙(ひんしゅく)を買う事態も少なくないですが、こんな風な厳かな儀式で「しっかり大人になったのだよ!」と自覚を促すことがあってもよいか・・・と年寄りは余計なことを思いました。

晴れて成年となられた悠仁親王殿下が天皇皇后両陛下に御礼を述べられます。ゆったりとしたお辞儀も美しい所作でした。

その後は、成年用の施式の黒い装束である縫腋袍(ほうえきのほう)姿で儀装馬車に乗りこまれ宮中三殿へ移動されました。宮中三殿とは皇祖神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)がお祀りされている賢所(かしこどころ)、歴代天皇と皇族方をお祀りしてある皇霊殿と国民の神々が祀られている神殿です。その後は、燕尾服で朝見の儀、勲章の親授・・・そしてメディアとの対話と続きました。

儀式を拝見しながら、その昔、高松塚古墳の発掘に関与された網干善教先生のお話を思い出しました。(Wikipedia参照)先生は明日香村のご出身で、後に父上が有名な遺跡 石舞台傍のお寺のご住職になられたことも関係していたのでしょうか、子ども時代から遺跡発掘にのめりこまれ、後に橿原考古学研究所の初代所長になられた末永雅雄先生のお弟子になられたそうです。後年、恩師を次いで関西大学教授にもなられましたが、「ボクは学問の弟子ではなく実地の弟子・・・」とのお話を何度もうかがいました。当時、考古学には縁もゆかりもなかった私ですが、網干先生の興味深いお話は断片的にいくつか記憶しています。

高松塚と西壁面の極彩色女人像(古都飛鳥保存財団HPより)

その一つが「色」です。
高松塚古墳は南北方向に長いといっても石室内径が南北約265cm、東西約103cm、高さ約113cmにすぎず、とてもかわいらしい小古墳です。なぜ、その小古墳が騒がれたかと云いますと、石室の内部に描かれていた絵です。東壁には男性4人の像と「青」龍と太陽と女性4人の像が、対面の西壁にはやはり4人の男子群像と「白」虎と月と女子4人の群像が、北壁には「玄」武が、天井には星座が描かれていたのです。その西壁の女性群像には鮮やかな色彩が残っていた、飛鳥美人ともよばれました。

網干先生のお話の一は、中国神話では天の四方を護る霊獣、四神とか四獣がいる、高松塚に残っているのは龍、虎、武なので、その昔の盗掘で破壊された南の壁には「朱」雀が描かれていたであろうと。

白虎(Wikipediaより)
玄武(Wikipediaより)

ここで「色」です。
網干先生の解説では、「青い龍、朱(赤)い雀、白い虎、玄(くろ)い武・・・龍、雀、虎、武はいずれも神獣だが、それぞれの色は「青」春、「朱」夏、「白」秋、「玄」冬なのだよ。「玄」は黒、玄米は黒いコメなのだよ・・・」と仰せでした。また「陰陽五行説というだろう?「青」は春や仁徳、思いやりを示し、「赤」は火だから暑い夏だが、燃える火は魔よけでその結果の幸せをも意味し、「白」は秋で真理や純粋さ、「黒(玄)」は冬で寒いから閉じ籠る・・・籠るから神秘的で最も高貴な色、時に紫が代用する、最後に「黄色」は四季の偏りのないことで完全さ高貴さを示すのです。」と。そして「七夕や学芸会(古い言葉ですが、話は50年近く昔)の時、色紙でワッパをつなぐだろう?その順序はこれによっているのだよ。」と教えて下さいました。

そして、悠仁殿下の成年式。
青年時代は黄色、成年式後は黒・・・これは和風のしきたりとして確立したのでしょうか?

そういえば、天皇だけが宮中祭祀で着用される黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)の赤茶色は日本独特の色でしょうか?先般、何処やらの大学文化祭で禁を侵したとのニュースもありましたが、その色は櫨(ハゼ)の樹皮とウルシの一種、蘇芳(スオウ)とを用いた染色だそうですが、平安時代に始まるといいますから、わが国の染色技術も歴史的に高度なのですね。

明日香村には、学生時代、短期間ながら住みました。網干先生の話題はその地が日本の国造りのエネルギーを蓄えていた6世紀末から1、2世紀、聖徳太子の時代にいたるその地の日常のようでした。そしてその当時、毎日、その地を通っていたので、古のスメラミコト(天皇)が闊歩されていたかもしれないと思うと、ちょっと異な気持ちを感じながら、レンゲ一面の田んぼの畔道を歩きました。

たまたま大学の先輩が、高校同窓であられた網干先生との呑み会?食事会に何度もよんでくださったことで考古学の大家と親しくお話できたのですが、難しいケッテキノホウ(闕腋袍)とかホウエキノホウ(縫腋袍)ととともに、非日常ともいえる考古学と網干先生をしのびながら、古式豊かすぎる感ある成年式を拝見しました。

高松塚