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国のあり方③ ベネズエラで起こったことは日本ではありえないか?

「正義」とは何で、ベネズエラについての正義とは、誰のために、誰が、誰に向かって語っているのか・・・もう記憶のかなたに押し込められた感もあるべネズエラをめぐって、私の中にはやはり違和感があります。

私は、第二次世界大戦に敗れた日本の地方農村に育ち、医師として社会生活を始めましたが、20年後、国際保健の世界に転じました。そして、幸か不幸か、紛争地や政治的緊張の高い地域に関与することが多く、国、国家、国際機関、軍、NGOそして個々の住民のさまざまな意見や実態が交錯する現実を否応なく見てまいりました。そのような経験を経た今、大国の大統領がお気に召さない近隣国の為政者への軍事的侵攻で拉致したことに、やはり強い違和感をもちます。日本がこんなことはしない、出来ない以上に、こんなことをされたらどうなるのか、どうするのか、こんなことは日本では絶対に起こらないのか・・・「普通の日本人」としての恐怖感に似た感覚もあります。

私たちは日本国憲法第9条により「戦争をしない」との姿勢を国内外に示しています。
が、憲法が規定するからではなく、私たち日本人には、こころの深いところに「戦争はしない!」という断固とした気持ちが根付いているように私は思っています。私が思っているだけでしょうか?

では、日本人とは、だれでしょうか?
日本国憲法には、「日本人とは誰か」と直接的に定義した条文は存在していません。ただし、日本人を前提としているとよめる条文や、国民の地位・権利義務を定める規定はいくつかあると思います。例えば、「日本国民」が前提となっているのは第10条に「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」とあります。エエッ・・・ですか?憲法に「日本国民」の定義がないのに、どうして私は日本人なのか、と思います。具体的に私が日本人であるという国籍要件は国籍法という法律に委ねているのだそうです。つまり、私が日本人であるということは国籍法による「日本国民(日本人)」の規定によるのです。

「私たち日本国民は・・・」という場合の「国民」という言葉には、実は二つの、少し感じが異なる表現が使い分けられています。ひとつは、日本国憲法による「権利」の主体としての日本国籍をもつ「国民」と、日本にいる人=日本で暮らしている、生活している人・・・これにはかなりの期間滞在している人も含むのか、私は正しく理解はできていませんが、とにかく地理上、日本の領域内に暮らしている人々でしょうか。

生まれてこの方、ずぅーっと日本人の私ですが、アメリカ、中国、パキスタン、スイスには年余以上を、その他数週間程度を含め海外には合計10年程度暮らしましたが、自分の祖国や国籍について疑問をもったり、それをどうこうしようと思ったりしたことはありません。それはわが国が島国で外と隔絶されているからではなく、わが国は個々の国民がそれぞれの国籍を意識しなくてよい、それだけ国の存在が定まっているからだと、私は考えています。いくつかの国々でともに勤務した仲間のなかには、国籍を複数有する人も少なからずいましたし、家族が異なる国籍の人や、引退後、何処に住むか悩んでいた人もいました。国籍とか国境というものを強く意識させられる事態も多々ありました。

40代で紛争地の保健計画支援に従事し、戦争・・・武力行使がどんなものか、何が生じるか、自分の目で見、耳で聞き、傷ついた人に触れる経験をしました。質素な集落は1、2発の爆弾で破壊されます。質素な住まいは簡単に修復できますが、人々の心に落ちた爆弾の影響は消えません。子ども、お年寄り、障害者そして女性も男性も含めて怯えている人々の恐怖、憎しみも感じました。

戦争が何か良いことをもたらすなどということはない、なにもないのです。国と国の戦争というほど大規模ではなくとも、地域住民同士の武力闘争を含め、武力がもたらすものは物的破壊だけではない。生物としての人の死はどこでも当たり前です。が、死すべき時期ではない時、理由もなく、突然命を絶たれる、災害がそうですが、それが武力行使である場合には身体の障害以上に人々の心を殺します。憎しみは新たな憎しみを生むだけです。

「国際社会は・・・」という言葉がメディアに出ますが、そのような中で働くと、それには実態がないような気がします。しかし世界の諸々に対処するには国際社会を無視できません。その国際社会が最も具体化したのが国連でしょうか。毎日毎日、何十ではなく何百もの会議が行われ、無数と云いたい決議や勧告が為されます。が、その効果を十分実感できるものはどれくらいあるでしょうか。

私が従事した国際保健分野では、しばしば国際社会と現地の人々の論理は断絶していました。ゴチャゴチャの中で紛争が起こる、そこに外部が侵入してくる。日々の生活というより人々の生存はその外部の支援がなければ成り立たない。時には為政者が自国民を抑圧する。外国の侵略でも自国の圧政でも国内武力集団の紛争でも被害を受けるのはその国のごく普通の人々です。より悲惨な目にあうのは子ども、老人、妊産婦、障害者・・・弱者です。

「戦争は独立国家のひとつの外交手段である」とか「戦争は外交の失敗である」とか云われますが、私は、戦争はそれを起こした為政者の敗北だと思っています。

強国が弱国に(武)力を行使するのは不正義だと私は思いたいのです。世界を為している国々の関係、国際秩序は満点ではなくとも国連などのいう国際法・・・つまり何らかのルールに従うべきだと思います。既に記憶の奥に放り込まれた感もありますが、ベネズエラで起こったようなことが許されるなら、やはり力が重要と思う為政者が増えるかもしれません。

ニューヨーク市にある国際連合本部ビル(Abir Anwarによる)

法律が何かをしてくれることはありません。わが国には日本国憲法第9条があるから戦争はないのではなく、私たち国民がそれを護るという固い決意があるから戦争を仕掛けない・・・はずです。一方、わが国の憲法は外国、外国人を規制するものではありません。ある国が日本を攻撃しようとする際にはそれを止めるものではありません。私たちの脳裏の奥底、社会の深層に染み込んでいる「戦争をしない」は自発的あるいは日本の内的決意に過ぎません。が、それは80年にわたってわが国の深い所に根付いているからこそ他国の為政者に強国が軍事・経済圧力を加えた行為に、直感的な拒否感が生じるのでしょうか。

国際社会、国際政治的に近年の武力紛争・・・ウクライナ、ガザ・・・が容認されているのはおかしなことのように思います。ですが「国際」という世界はおかしなことが「普通」のような気もします。国際政治の名目が特に大国の安全保障の考え方によるのならなおのことですが、何でもありとは申しません、しかし異なる論理もなりたつのでしょうか。力の論理はrealpolitikとか云われますが、国際社会には国内のような警察権力が存在しないのです。だから最終的に秩序を守る、自国にとっての良かれを実現する、出来るのは「力」です、残念ながら・・・

ベネズエラという国が抱える政治的、経済的な問題が深刻で、さらに国内の抑圧や統治の失敗もあることは事実でしょう。でも、です。それを理由に外部の大国が「正義」を掲げて介入することって、本当に良いことなのでしょうか?国際的に正当化されるのでしょうか?私が、個人的にモヤモヤするのはそこなのです。「民主主義」や「人道」は大義名分ではありますが、ベネズエラに関して民主主義の回復、人権侵害への対応、人道危機の回避といった正義感ムチムチの美しく正しい言葉が並び、そのために大国が実力を行使したとは表の理由です。地政学的には「米国の裏庭」といわれる地域の、世界一の石油埋蔵量を誇り、しかもどちらかと云えば、アメリカとは対立的な国・・・そこへ正義を掲げて大国米国が行動を起こした・・・

ベネズエラの国旗

国家・・・大国の論理と、貧しくとも独立国の人間の論理はかく斯様に断絶しています。
そして、例えそれが正義であったとしても、制裁や軍事力の行使が直接影響するのは国家ではなく人々です。細かいことを云えば、保健医療施設が破壊され、医薬品・栄養・安全な水や食料の補給が断たれ、保健医療システムも崩壊します。最大に影響をうけるのは子ども、妊産婦、障害者、高齢者、慢性疾患患者です。

ウクライナ、ガザ、ソマリア、ミャンマー、タイとカンボジア・・・常に、世界のどこかで武力が人々を痛めつけています。日本国憲法は、わが国が戦争を放棄したとしています。戦争を放棄すること・・・と武器を持たないことはイコールでない・・・紛争地勤務した私は、悲しい気持ちですが、追記しておきたい気がします。

ほとんど知識のない私が国際政治を云々することは違反かもしれません。が、国際社会では「おかしなこと」が繰り返され、それを現実として受け入れ過ぎている。私たちがそれを「仕方がない」と感じなくなったときにこそ、正義というものがうやむやになって、完全に権力の道具になるのではないか・・・違和感を覚えること、その時には、立ち止まって考えること。それは国際問題に詳しくない「普通の日本人」の感性ではなく、人間としての感覚なのだと、私は信じています。