JP / EN

Chair's Blog 会長ブログ ネコの目

猫イメージ

災害のあと・・・

昨日は東日本大震災から15年目でした。夜、各テレビでは現地の方々の語りを含めた追悼番組が続きました。

先週末から、Sasakawa看護フェロー達と能登輪島を訪問してきました。一昨年の1月1日、マグニチュード7.6、最大震度7の巨大地震が発生、被災者がようやく仮設住宅に入居しようとした同年9月21~23日、今度は豪雨でした。稀な災害が同じ地域で発生した、その能登輪島を訪問してきたばかりでした。

輪島‐観光としても有名な朝市。被災後3か月目に訪問した時はまだ焼け焦げたままでした。そして市内の各地各所に倒壊した建物やブルーシートが目立っていました。が、2年という歳月が経った現在、各地各所は更地となり、はかなげに枯れた草が揺れていました。かつては路肩が崩れていた道も修復されてはいますが、まだまだデコボコ道でした。何よりも人影のない街、これからここはどうなるのか、外部の私たちにできることは何なのかとの想いが募りました。

日本は災害、とくに地震多発国です。
東日本大震災のマグニチュード9.0は日本の地震観測史上最大規模、最大震度7(宮城県栗原市)は1995年の兵庫県南部地震/阪神淡路大震災以来でした。東日本大震災は当時勤務していた日本赤十字九州国際看護大学の卒業式直後だったため、大学を巣立ったものの4月の就業まで時間があるからと、ほやほやの看護師たちが現地入りを熱望しました。しかし災害の規模と直後に始まったフクシマの原発事故もあって実施は断念、しかし福岡県内で赤十字の義援金募金を9回行い、大口ご寄付を含め450万円のご芳志を集めました。そして4か月後の夏期休暇時には学生ら80名と宮城県南三陸町でボランティアを致しました。TVでは、当時の津波の胸迫る映像、災害遺構としての保存が決まった南三陸町の旧防災対策庁舎の遺構、昨年秋に引退された佐藤前町長のお顔を拝見しました。お世話になったホテル観洋・・・懐かしいではない想いが胸に迫りました。

南三陸町旧防災対策庁舎 2012年(左)と2023年(右)の様子

その前、1995年の阪神淡路大震災時の私は東京住まいでした。が、郷里宝塚の一部も激甚地となり200年近い生家が被災しました。当時従事していた国際保健の一環として、神戸、西宮、宝塚市などの災害や被災状況調査と被災者のフォローアップを断続的に約1年間続けました。2005年のマグ二チュード7の福岡西方沖地震では、被災地玄界島の島民が避難された九電体育館で学生ボランティア活動を致しました。

海外では、WHO勤務時、紛争国ながら地震の多いアフガニスタンへの支援も行いましたし、2004年インドネシア バンダアチェの巨大地震津波災害では、発災1年後から6年間、勤務していた看護大学の教職員が現地入りを繰り返し、その地の4つの看護専門学校に災害看護課程の開設と教科書作成のお手伝いをいたしました。懐かしいアチェダンス・・・歌手五輪まゆみがお好きだったとおっしゃってので、持っていたテープ(古いですね!)を差し上げたインドネシア赤十字アチェ支部長との交流も思い出しました。

そして災害はどれも、異なる顔をしているとつくづく思いながら東日本大震災追悼番組を観ました。しかし、どの災害でも、残っている被災者お一人お一人の思いは変わらないのです。あの時こうすれば良かった、ああすれば母を、父を、姉や妹を、娘や息子を、夫や妻や孫を助けられたのに・・・との思いです。東日本大震災では、巨大津波のために、今なお行方不明の方々が2,519名を数えます。死者は15,901人・・・この数字を大きいと読むか小さいと読むかはそれぞれの人の経験や考えによるでしょうが、家族として、親しい人としてのかけがえのなさ、大きさは比較できるものではありません。

日本では、東日本大震災の追悼番組が報じされている間、海外放送では中東の戦況が報じられていました。私たちの日本では自然災害は絶え間ない・・・のですが、武力災害・戦争は皆無の80年でした。それは大声で叫びはしないものの、私たち国民の意思でもありましょう。中東で続いている戦争は機械化され顔の見えない武力抗争です。しかし、犠牲者が出ることに変わりはありません。

自然災害の大半は抗えない事象によりますが、戦争は人の意志が関与します。
人・・・国の為政者そして国民の意志・・・です。少し脱線しつつ、東日本大震災の犠牲者を追悼致しました。

南三陸町旧防災対策庁舎 現在の様子(ミヤギテレビYoutubeより)