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沖縄慰霊の日

昨日6月23日は沖縄慰霊の日でした。

第二次世界大戦が終わって81年、多くの国民が戦争の記憶を持たなくなった現在の日本・・・それはそれでとても良いことです。81年間、ただの一人も戦争でいのちを失ったことがないことは何と素晴らしいことでしょうか。1980、90年代にアフガニスタンやアフリカ、中近東、バルカン半島の紛争地への保健支援に関与させていただいた頃、あまりに簡単に人が死ぬこと、そしてそれを悼んでいる間もなく逃げねばならない状況に呆然としたこともありました。

昨日、今年の沖縄全戦没者追悼式で朗読された平和の詩を聞きながら、私は改めて戦争がなぜ起こされるのか、そして戦争とはいったい何なのかを考えていました。

今年の平和の詩「生きたいと願った証」を書かれたのは14歳の少女でした。彼女の曾祖母ヒィオバァチャマは、戦時、空襲の中を逃げ惑いながら生き延びられたそうです。そして右足には今も、その時の傷痕が残っているのです。少女は、その傷を「生きたいと願った証〈あかし〉」と呼んでいます。私は、第二次世界大戦が終わった時5歳でした・・・何度か書きましたが、不気味なサイレンの音・・・空襲警報やB29の爆音の記憶はあります。そして、何かの折に、それに近い音を耳にすると動悸することがあります。PTSDというヤツですね。80年も経っているのに。

第二次世界大戦時、戦争を経験したといっても、本当の戦場を経験した日本人は沖縄に限られます。一方的な犠牲では、1945年3月の東京への空前絶後の焼夷弾投下、8月6日のヒロシマと9日のナガサキへの原爆がありますが、日本で敵味方の地上交戦があったのは沖縄だけです。

沖縄全戦没者追悼式で献花する参列者の様子(時事通信より)

今年の詩にある一節・・・もし曾祖母があの日命を落としていたら、自分はここにいなかった―。
そうでした。ヒィオバアチャマが、もし、沖縄戦でいのちを落されていたら、この詩の作者のご両親のどちらかはこの世に存在せず、当然、この作者もお生まれにはなっていません・・・その気づき、想い・・・

私たちが歴史を学ぶ時には、ついつい国家や国土・・・経済や産業、そしてイクサに関しては、軍の規模や勝敗に意識が向かいます。国民という集合名詞は現れますが、一人一人の住民は見えていません。本当に失われるのは一つ一つの命、一人ひとりの人生であり、その後に・・・戦争後の未来に生まれてくるはずだった命、その人生なのに、です。

毎年の、沖縄の平和の詩にはそのような視点があるように思えます。とても印象的だったのは、数年前、沖縄の言葉で歌われた詩でした。もちろん、外国語のようなその詩の意味は標準語になおされたものを読むまで判りませんでした。が、確か、祖父母たちの記憶を未来に送ろうといったような意味でした。昨年は祖母から聞いた防空壕を題材にした作品でした。

今を生きる沖縄の子どもたちは戦争を知らないのですが、恐らく、毎年の6月23日に行われる平和の式典を通じて、沖縄以外に暮らす私たちとはかなり異なる戦争観、戦争の記憶とでもいったものに触れているのだと思います。そして、とつとつとですが、自らの戦争時の経験を語られるお年寄り、最後の最後の世代ですが、戦争を経験した人々のお気持ち、雰囲気・・・それらに強く触れることを通して平和というつかみどころのない、そしてかけがえのないものを実感されているのではないでしょうか。

毎年の沖縄の平和の詩<ウタ>は単に上手にかかれた詩〈シ〉、単なる作文ではないと思います。僭越な言い方ですが、それは「記憶の継承」、「負の文化の伝承」であり、そして「生命の継承」であるように思います。

私が、現在、お手伝いしている看護は、かつての本業だった医療と同じように、人間の生物学的社会学的健康を護る手段のひとつですが、その根底にあるのはひとりの人間が「生きる」こと、「生きたい」という願うことをどのように支えるかということのように思います。

国立療養所宮古南静園(沖縄県宮古島市)には戦争の傷跡が残る。語り部の方より弾痕の残る壁の説明を受ける喜多(2023年5月)

そしてー
戦争はその願いを踏みにじり、無に帰させるとともにあったはずの未来を消してしまします。

だからー
平和とは、ただ戦争がないという状態ではなく、もっと積極的発展的な社会であって欲しいと願います。人々が安心して生まれ、成長し、学び、家族を持ち、社会と交流し、そして老いてゆく・・・やがて次の世代が生を受け継ぐ・・・

今年の平和の詩・・・・多分、私と同じ世代の曾祖母さまと、その脛にある傷痕を思いました。