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イスラム国とクルド 2-緒方貞子先生とクルド難民

1991年6月末、ワシントンのジョージタウン大学で緒方貞子国連難民高等弁務官(UNHCR)の講演会がありました。私は、紛争地支援のはしりで派遣されたパキスタンのペシャワールでの勤務を終えた後、50才の手習い的短期研修でしたが、ボルチモアのジョンズホプキンス大学公衆衛生大学院に席を置いていました。レセプションの場で、先生から、ジュネーヴのUNHCRに来るようにお誘いを頂きました。

ご訃報の全ての記事にありますが、先生は、国境を越えて避難した人々=難民だけを支援するというそれまでのUNHCRの方針を劇的に変えられました。

1990年8月に勃発した湾岸戦争(イラクのフセイン大統領によるクウェート侵攻)後、反旗を翻した同国民である北部クルド人を政府軍が攻撃しました。クルド人の居住地帯は、イラク北部、イラン西部、トルコ東部、シリア北部そしてアルメニアと広範にわたりますが、難を逃れるべく同族の住む隣国へ避難しようとした50万もの人々は受入れを拒否したトルコによって、一方が断崖絶壁の狭い国境地帯に立ち往生してしまいました。

UNHCRご着任後、まだ、それほど日が経っていなかったにも拘わらず、先生は、UNHCRは、国境を越えた「難民」だけでなく、国境地帯に滞留する「国内避難民」も支援するとの画期的な方針を打ち出され、その歴史始まって以来初めてUNHCRが国内避難民を支援しました。直後に現地入りした私は、トルコ赤新月社と有名な国境なき医師団の救援者が、口角泡を飛ばして賛美するのを、ちょっとうっとりと聴きました。新参者の私が申すまでもなく、目からウロコの想いをした難民関係者が続出したはずです。そして、その後の難民と避難民支援の新しい時代が始まったのでした。

この地域の民族はとても複雑です。元来緩やかな接触しかなった多民族の人々を、近代的な国としてきっちりと線引きすることが無理だったのは、アフガニスタンしかり、アフリカのいくつかの地域も同様でした。そのルーツは、紀元前に始まる民族モザイク模様に加えて、1914年に始まった第一次世界大戦により、大国と結びついたそれぞれの民族の思惑が微妙に入り組んだまま、近代になだれ込んだ・・・そんな気がします。

1918年の今日10月30日は、オスマン帝国が連合国に降伏した日です。その大オスマン帝国は元々イスラム教を信奉するトルコ人が主体でしたが、とかく民族性はややこしいというか複雑です。南部の、現在のイラクからアフリカ北部アルジェリアにはアラビア語が母語のアラブ人も多かったうえ、その西方にはベルベル人、そして現在のイラク北部からシリアに向けてはシリア語を話すアッシリア人、エジプトに拠点を持つコプト派キリスト教徒、そして小アジアともよばれる半島部分にはスンニ派イスラムのクルド人、古くは東ローマ帝国であった一帯やバルカン半島にはギリシャ人やアルメニア人という多彩さです。そのような一帯を武力支配したのがトルコ人主体のオスマン帝国ですから、当然、トルコ人が各地に散らばったはずですし、最も民族的に複雑なバルカン半島には、ペチェネク人、ブルガリア人、セルビア人、クロアチア人などなど。仲間のヨーロッパ人には、家の庭でなくとも近くの公園あたりの名前的に馴染みがあったようですが、古来、ずっと日本人の私には、名前を覚えることや関係性を理解するのが大変、1990年代末のWHO緊急援助部時代、私は、毎日カンニングペーパー片手の試験のような救援計画作りでした。

第一次世界大戦は、ヨーロッパの近代化の大きなきっかけではありましたが、中東からバルカン半島諸国のその後の民族的対立の深い根は解決しないまま、第二次世界大戦を経て、さらに50年後の1990年代末、バルカン問題に至りました。当時、ジュネーヴで、コソボ問題を担当した際も毎日毎日歴史の復習でした。が、その頃のジュネーヴにはUNHCRの緒方先生がおいででした。

ちょっとだけ自慢話を許されますなら、ごくたまにですが、先生の事務所を訪問させて頂くと、UNHCRの関係者やWHOの仲間からとてもうらやましがられたものでした。生憎、当時の写真が手許にありませんが、先生がJICA理事長にご着任時のものをここに・・・

クルド人は、現在もトルコ、シリア、イラク、イランなどにまたがって暮らす3000万人強の民族グループですが、第二次世界大戦後、ほんの少時、クルディスタン共和国が存在したとする記録もあるにはありますが、国際的に正式な独立が認められたことはなく「国を持たない最大の民族」と呼ばれる所以です。

前職の看護大学時代、JICA地域母子保健研修のメンバーとして、イラクからのクルド人医師たちをお迎えしたことがあります。アフガニスタンの人々は、毎年のように迎えしていましたが、少し似た、お髭がお似合のお顔立ちでしたが、優しいジェントルメンたちでした。2002年入学の2期生のかわいいショウコチャンが、自分の娘と似ているとホームシックになられた産科医がおいででした。ショウコチャンたちは「センセ!!このドクターたちは、銃を触ったこともないんですって。一体、誰が、クルドは危険だと云われるようなセンソーしているのですか?」と憤慨したこともありました。

そのような穏やかな人々の地にイスラム国ISISがはびこった理由は何なのでしょうか?

民族対立?

経済格差?

大国のエゴによる弱者のあがき?

あるいは少数の不満分子の扇動?

2018年のノーベル平和賞受賞者ナディア・ムラドの『Last Girl』を読むと、素朴な村々があまりに無防備にも思えますが、クルドの近世史には、自由や権利、解放と平等に立ち向かう女性たちや、実際に銃を持って戦う女性部隊があることも判ります。

平和ボケしている日本・・・と云われますが、それが未来永劫続くならばそれでも良いように思います。でも・・・と云わなければならないことが増えている現在の世界。私たち、私は何をすればいのか・・・

緒方貞子先生のご冥福を祈りつつ、アフガニスタン、クルド、コソボ、ルワンダ・・・かつて関与した紛争地に想いを馳せています。