会長ブログ Chair's Blog

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30年前・・・

昨日11月21日は、11月第3木曜日、日付がかわった午前0時に、ボジョレー・ヌーヴォー(Beaujolais nouveau ボジョレーの新酒)が解禁されました。ボジョレーワインは、フランスのローヌ県の一角ソーヌ=エ=ロワール県の一地域で産生されるのですが、何故、これがもてはやされるのか、今一よく判りません。本来、その年の新酒の品質、ブドウの出来具合評価のために、醸成期間の短い新酒をワイン業者向けに提供されたのが始まりだそうです。フランスには、ビンの肩が張ったボルドーとなで肩ビンのブルゴーニュが二大ワインですが、ボジョレーはブルゴーニュです。

一時ほどのブームではありませんが、解禁時刻直後の試飲会など、イベント化されて楽しむ方々も多いのでしょう。ドンパチ紛争やややこしい政争よりは、はるかによろしい。下戸の私にはどうでもよろしいが、お祭りは好き、お声かけがあれば、はせ参じますが、それにしても夜中は・・・ね。

さて、今年の11月は、二つのあれから30年ですが、私にとっても、本格的国際稼業に入って以来の年限です。

まずは、「ベルリンの壁崩壊から30年」。内外のメディアにしばらく関連記事が出ていました。その年、私は前年1988年12月にパキスタンのペシャワールに新設されたユニセフアフガン事務所に勤務していました。当時は、まだ、西ドイツ国籍の友人夫婦の来訪の機会に、休暇を取ってインダス川沿いにカラコルムハイウェイを走りました。このご夫婦イングリッドとテオは、数年前の中国勤務時に知り合ったのですが、中国では、同じカラコルムハイウェイを西に、昨今、人種宗教的に微妙な新疆省ウイグル自治区のカシュガルまで走破していました。私のパキスタン滞在にあわせて、そのハイウェイを東に走り、富士山よりも高い、海抜4,693mの世界最高所のパキスタン-中国国境クンジュラブ峠に行くことにしていました。現ギルギット・バルティスタン州のカラコルム山系を横断する旅は、地球創生の時代を髣髴させる、興味深いものでしたが、それはさておき・・・

                 クンジュラブ峠

クンジュラブ峠

11月10日の夕方でした。日中は45度も稀でない地域、ようやくほんの少し気温が下がった頃、イングリッドと私は、中国製の蚊取り線香を何本もくゆらした庭先で、ライムを浮かしたグリーンティを手に、共通の知人の消息というか噂話をしていました。すると、テオが、愛用のトランジスターラジオを手に、「壁が・・・」と云いながら、出てきたのです。

それが1961年8月13日以来、28年間、ベルリンと、ドイツと、そして世界を西と東に引き割いていたベルリンの壁の終焉でした。実際には、前日11月9日に、国民の大量出国の願望が頂点にたっしていた東ドイツ政府が、対応策の一環として、旅行と国外移住の大幅規制緩和の政令を出したことが、事実上、国境を越えた移動の自由化だと受け取った東ベルリン市民が、国境に押し寄せ、何だかうやむやの中で検問が崩壊した・・・翌日11月10日には、手に手にハンマーなどを持った東ベルリン市民が壁そのものを打ち壊し始めたという、歴史の転換点として信じられないような経過を、私は、やや興奮気味の西ドイツ国民と共有したのでした。

当時の私の任務は、前年、合意されたアフガニスタンからの旧ソビエト軍撤退にあわせて、350万とも推定されていたパキスタン滞留のアフガン難民の本国帰還までに、子どもたちの予防接種率を上げること、母性保健の推進でしたから、私自身の仕事も変わるのかな、とも思いました。何より、第二次世界大戦後の東西隔絶の象徴でもあったベルリンの壁の崩壊は、西側の自由主義、民主主義、資本主義の勝利を予測させましたが、その後の世界は、かえって複雑でややこしくなりました。

もう一つのあれからは、壁ではなく広場です。

通称、天安門事件は、1989年6月4日に発生しました。同年4月15日の改革派胡耀邦元総書記の死をきっかけに、政治改革をもとめる学生ら10万人が中国 北京の天安門広場に集い、民主化を求めるデモが始まりました。そのデモ隊に、軍隊が武力行使し多数の死者が出たというものです。抗議運動自体は、胡耀邦元総書記が死去した1989年4月15日から始まったそうですが、最初は、あまり統制のとれたものではなかったものの、デモが上海など他の都市にも広がったことで、鄧小平主席によって、5月中旬、まず、北京市に戒厳令が出され、軍の武力介入が予測されるようになっていました。当時の総書記趙紫陽ら知識人は、学生らに平和的に解散することを促したのですが、強硬派が力を持ち始めていた学生らはデモ継続を強行し、北京の中心街がマヒし始めていた6月4日早朝、中国人民解放軍の戦車がデモ隊を威嚇し、多数の死者が出た…と報じられました。この事件の実態は今に至るまでよく判らないのです。デモ隊が先に暴力行為をしたが軍は発砲していないとか、広場での殺戮はなく、周辺で軍を妨害した人民が殺されただけだとするものもありますが、いずれにせよ、当時の改革派趙紫陽総書記が失脚し、保守派が勢力を握ったことは事実です。この日、たまたま、北京経由のパキスタン航空で来訪する友人がいたのですが、その飛行機が遅れたことから、北京で何か事が起こっていることを知りました。現在の香港の学生たちの報道を見るにつけ、心が騒ぎます。

中国は、しかし、その後、社会主義のまま経済発展し、世界第二の経済大国となっています。ベルリンの壁の崩壊は、確かに自由と民主主義の勝利でもあったと思うのですが、中国の経済の発展をみると、何に優位性があるのかとも思いますし、中東の混乱を思うと、幾分の統制があっても人々が裕福になって、社会秩序がある方が良いのか、国際保健分野の専業になって以来の私の30年は、まだ、安定には程遠いままです。

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