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Chair's Blog 会長ブログ ネコの目

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中村哲先生の訃報 ペシャワールからの30年

どんなことが起こっても不思議ではない地域になっていたジャララバード。畏友中村哲の命を吸い取ったその地の南にパキスタンとの国境でもあるスピン・ガール(Spin Ghar現地の言葉パシュトゥ語で白い山)が横たわっています。私は、ペシャワールでの、思えば過酷な日々をなぐさめてくれた真っ白のノラ猫に、哲先生から教えられた山の名前を付けていました。

哲先生は、山と蝶々に魅かれて、最初、パキスタンに足を踏み入れられたので、「動機は不純とは云わんとですが、こんな風な仕事をすることになるとは思っとらんかったとでっす!!」と、初めてお目にかかった日に仰せでした。それは、今から31年前、私がペシャワール入りして3週間ほどの1988年12月8日(イスラムの休日の金曜日)でした。当時、すでに先生の拠点PIMSとよばれていた日の丸と鳩のマークの診療所はペシャワールでは有名なクリニックでした。中村哲ありきを知っていながら、野暮な事情から、私からは表敬できていませんでした。

その事情、もう時効でもあるし、まず、ご披露したいと思います。

紛争地への文民支援のトライアルだったのでしょう、私は、その年、350万とも推定されていたアフガン難民が滞留するパキスタンの国境の街ペシャワールに新設予定のUNICEFアフガン事務所に、国から派遣されました。まだ激しい紛争が続くアフガニスタン国内に、外国人スタッフが常駐できないこととともに、翌年2月、10年にわたってアフガニスタン全土を支配した旧ソビエト軍が撤退するのにあわせた難民帰還支援を本務とする、いわば緊急的前線基地のような事務所でした。

哲先生が、当時、いわゆる国レベルの支援に批判的なご意見を発しておられたため、私の出発に際して、「中村某<ナニガシ>のところには挨拶に行かないように・・・」と、某所からの指示がありました。私は、それを真に受けて、「ハイ!!私からは中村某のところには参りません。が、狭い地域で偶然お目にかかるやも知れませんが、その際はご挨拶してよろしいですね?」と、最大の皮肉を返して現地入りました。ペシャワールは、当時も今も、あまり訪問者が多い所ではありませんが、取り分け、1980年代末頃、ペシャワール入りした日本人はすべて、数日内に先生を表敬し、オリエンテーションを受けていた中、私は、やせ我慢をしていました。

やっと見つけた庭の広い煉瓦造りの家に、哲先生がおいでになりました。「心配しとっとです」と。

律儀な私が、自ら交わした約束故に、自ら先生をお訪ね出来なかった経緯を申し上げました。先生は、膝を打って呵々大笑された後、「わたしから来たとですが・・・何なら、証明書を書いておきましょう!」と仰せになりました。

先生はコーヒーがお好きのようでした。当時のペシャワールでコーヒーは滅多に入手できなかったのですが、私は日本から持参したなけなしのコーヒー豆を挽きました。その日、陽が傾く頃まで、大きなポット2杯が空になっても話は尽きませんでした。アフガニスタンのこと、難民のこと、パキスタンのこと、部族社会のしきたり、そして世界の介入の様、東西対立とアラブ゙世界の関与、ムジャヒディンとよばれる反共ゲリラのややこしい派閥とそのバランス・・・そして人々の生活、健康、教育・・・その日から今に至るまで、先生の基本的な平和への考えは1ミリも、いえ、1ミクロンも動いていないことを、今、改めて実感しています。

以来、毎日のように、時間がある限り、会いました。先生の事務所で、ご自宅でも。後に、ボランティアで押しかけられた日本人女性スタッフをお預かりしたり、仕事上、持参していた検査機器を寄贈したり、時には、女性患者のケアを手伝ったり・・・尚子夫人のお手作り料理を頂いたり・・・私のペシャワールの日々は、哲先生なくしてあり得なかったのです。

4月後半から11月まで、日中45度以上、特に8月には50度を超える日もあり、しかも湿度も高い中、当時は、毎日停電していました。ご一家は、毎年、夏に一時ご帰国されました。「あなたは53度を超えるここの本当の真夏を知らない!!」と悪態をついたこともありました。先生は、悠然として、たばこをくゆらされていました。それでも50万以上の現地パキスタン人も、ペシャワール近郊に広がる多数難民キャンプに居住する100万とも150万とも推定されていたアフガンの人々も、「皆、同じ環境で暮らしていなさるっと・・・」と。

中村哲先生著書『ペシャワールにて 』

当時のペシャワールでも治安は決して安定していませんでした。私自身、「銃を持ちなさい」、「ピストルを貸してあげる」、「スタンガンは必須です」とご親切な方々から様々武器を見せて頂きました。先生に相談すると、「・・・」無言でした、当たり前ですが。

そんな状況下に、特に治安悪化時には、国連の撤退勧告が出ました。ナイーブな援助者だった私は、おろおろしました。現地の人々、支援すべき難民、現地スタッフを残して、どうして自分だけ逃げられるか・・・そんな気になれない・・・そんな時も、哲先生は悠然と構えておられました。そして「現地スタッフの家に間借りすればよかと・・・」。ひとつひとつ、ペシャワールの日々を思うと哲先生の声が聞こえる・・・そして、何カ月も会わなくとも何ともなかったのに、今は、何と空虚か、そしてそれにもまして云いたい、叫びたい。なぜ、なぜ、何故、何故、あなたは死んだのか、と。

2年間の任務を終えて帰国した後、私は時に先生の講演会に参加するだけの日々の後、1998年、WHO本部緊急援助部に勤務することとなり、再びタリバン支配下のアフガンも担当しました。ペシャワールとはまた違う、さらに緊張を強いられるカブールやアフガンニスタンの各地へ出かけました。が、ペシャワールの経験なくしては不可能な仕事でした。各地を統括していた部族の長や長老方は、ペシャワールで交流したムジャヒディンボスたちが援助物資や武器の分配をめぐって、外国人との交流経験があったのに対し、アフガニスタンから一歩も出なかったような武力集団のボスは、まるで16世紀・・・と思えました。織田信長や武田信玄と会えばこんな感じかなと。

先生とは滅多にお目にかからないまま、次の職場は福岡県、新設日本赤十字九州国際看護大学への着任をお知らせした前後に先生から会いたいとの連絡を頂きました。哲先生と会うのに何の制約もなくなっていた中、再び、哲先生がおいで下さいました。

手書きの原稿の束を前に、どう思うかと問われ、絶句する私に、哲先生は、昔と変わらず、淡々と、そして順々と、医療の前に必要な食料、栄養、水、そして家族のだんらんの場がない・・・それらは医療よりも前に必要だと、その必然性を説かれました。その夜、『医者 井戸を掘る』の草稿を改めて熟読しました。間なしに、アフガンの治水に参照された筑後川の山田堰について調べて欲しいとの連絡を受けました。こうして、哲先生は、医療も出来る土木専門家に変身なさいました。毎年開催される県内や各地の講演会では、病人の写真ではなく、マルワリード用水路が常套句になり、ガンベリ砂漠、ダラエ・ヌース渓谷の緑化の様が報告されました。

第25回日本国際保健医療学会 特別企画にて(左から中村先生、澤地氏)

同県人となった私は、以後、何度も先生に助けられています。2001年7月11日、国際を標榜する唯一の看護大学の開学記念として企画運営した講演会でのご講演、稀な悪性腫瘍で重体だったご令息の状態を案じながら、駆け付けお話しくださいました。そして2012年には、福岡県赤十字血液センター創立50周年記念式典の目玉としての講演もお願い致しました。さらに2010年には、学長となった私のたってのお願いで、大学創立10周年記念と併催させて頂いた第25回日本国際保健医療学会の特別企画を受けて下さいました。しかも、同年2月に出版されたドキュメンタリー作家澤地久枝氏と哲先生の対談『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る-アフガンとの約束』をそのままタイトルとした、本当に稀な、そして得難いく、価値ある珠玉対談講演でした。

 

嗚呼、哲先生

なぜ、あなたが狙われたのでしょうか?あなたは判っていたのでしょうか?

ときにはほんわかと思い出せていたペシャワールの日々、私は、それをもう封印してしまわなければならない・・・あなたの居なくなった今。

中村哲先生

ご冥福をお祈りします、など言いたくもない科白・・・

けど、安らかにお休みください。