会長ブログ Chair's Blog

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ペシャワールのハンセン病、中村哲の思い出

哲先生が居なくなって1ヵ月と20日が、こともなく過ぎていることに愕然とします。

改めて、彼の書の2、3を読み返す間、気が付くと、本を手にしたまま、ぼんやりと思い出に耽っていることがあります。

哲先生とめぐり逢ったペシャワールという、あまりにも混とんとし、あまりにも蠱惑的で、あまりにも情がふかく、そしてあらゆる危険が身近でもあった、あの異郷のそれぞれ興味深い記憶の一つ一つに哲先生の声やまなざしが染みついているからかもしれません。

現在、勤務している笹川保健財団は、1974年、笹川良一翁によって、世界のハンセン病対策のために設置されました。1974年、昭和49年と云えば、「ウォーターゲート事件」への関与から弾劾不可避となったニクソン大統領が辞任し、日本の佐藤栄作首相がノーベル平和賞を受けられた年でした。私は、今なら許されない超過勤務・・・別の言い方をすれば濃厚な臨床医生活だった国立大阪病院での勤務から、大学の臨床検査室に移動した年でした。哲先生は、大学卒業後のピカピカの医師だった・・・そしてご趣味の蝶々を求めて山歩きをなさっていた・・・

それから約10年の1984年、哲先生がパキスタンに足場を築き始められました。

1988年、初期のペシャワール会の前線基地でもあった、通称PIMSと呼ばれていた診療所で、私は、ほとんど毎日のように顔をあわせました。そして、その際に、現地風の、とても美味しいチャイ(ロイヤルミルクティ)を入れてくれていたのは、手指や顔面が変形し、時には義足をつけた人もいたのですが、ハンセン病の回復者たちでした。

1965年という古い年に医学部を卒業した私でさえ、新たなハンセン病者を診ることが無かったほど、日本の隔離政策が徹底していたことを後に実感させられましたが、ペシャワールでは、ことに哲先生の診療所では、ハンセン病患者だからといって隔離されたり、偏見を持たれたりしている感覚は皆無でした。

パキスタンで遭遇する多数の患者が隣国アフガニスタンからの難民であることから、哲先生は、次第にアフガニスタンに軸足を移され、そして医療よりも井戸掘り、カレーズ整備といった治水、さらに巨大な堰の造成に続く農地の開拓・・・先生は復興と仰せでしたが、さらにさらに、現地の人々を巻き込んだ地域づくりに重点をおかれるようになりました。

2019年12月4日の悲劇的な襲撃まで・・・

ペシャワールでは、私自身は、母子保健や予防接種が任務でしたので、直接、ハンセン病と向き合ったのではありません。が、恐らく、人類発祥と同じくらい古くから存在したであろう、このらい菌という、きわめて感染力が弱く、滅多なことでは発病に到らせられないのに、いったんその末梢神経と皮膚に住み着くと、ジワジワと人間を痛めつける細菌との闘いは、医学的から社会的そして経済的に、さらに人道的に政治的に、果てしない道程を私どもに強いています。

ご縁があって、笹川保健財団に職を得て以来、この病気に関連するいくつかの土地をめぐっていますので、折々に記してみます。

別添は、Lancet誌に出た哲先生の追悼記とそのつたない訳ですが高覧下さい。

Lancet 追悼文 日本語

Tetsu Nakamura THE LANCET VOLUME 395, ISSUE 10219, P184, JANUARY 18, 2020

 

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