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沖縄のこと

昨日6月23日は、沖縄県の「慰霊の日」でした。

第二次世界大戦の末期、沖縄での組織的戦闘状態が終わった日とされます。組織的戦闘・・・本土に近い沖縄をめぐる日米の決戦・・・日本軍司令官牛島満大将が自決され、軍としての戦闘態勢が消失した日です・・・

1939(昭和14)年9月1日、ナチスドイツのポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦は、1945年4月イタリアではムッソリーニが処刑され、5月にドイツベルリンが陥落し、そして8月15日のわが国の無条件降伏で終わりました。わが国では、広島と長崎への原子爆弾投下とともに、激しい地上戦が行われた沖縄では、多数の住民が犠牲となっています・・・などと、簡単に書いてしまってはいけないような気が、今もします。

その沖縄を初めて訪問したのは、1975年1月でした。同年7月20日から翌年1月18日までの183日間、沖縄本島の北部、国頭郡<クニガミグン>本部町で開催された国際博覧会、通称沖縄海洋博事業に関与していた叔父が、新年の休みを利用して、現地に行くが、日本の国土に復帰した沖縄をみてはどうかと誘ってくれたからでした。

第二次世界大戦の末期、アメリカ軍が上陸し、地上戦となった沖縄は、その後27年間の長きに渡りアメリカ合衆国の占領下にありました。東京オリンピックは1964(昭和39)年でしたが、それから8年後の1972(昭和47)年5月15日、沖縄(琉球諸島と大東諸島)の施政権がアメリカから日本に返還されました。ですから、それまでは、沖縄に行くにはパスポートが必要だったのです。

海洋博の工事現場は、ところどころ地ならしされ、ブルドーザーが何台も動き、建物らしき構造物の土台がありましたが、その向こうの美しい海・・・後に、ここが「美ら海<チュラウミ>公園」と呼ばれるのに大いに納得でした。そして、その後、南部の沖縄戦跡へ参りました。

敵味方なく、沖縄戦でなくなった20万余の人々のお名前た刻まれた平和の礎<いしじ>のある県営平和記念公園の開設は、沖縄戦終結50周年の1995年ですが、1975年当時は、まだ、生々しい感じが残っていたように思います。訪問した先々で、息をのむというか、胸がつまるというか、言葉にできない想いがこみ上げました。

この訪問を機会に、沢山の沖縄に関する戦記を読みました。何度が戦跡にも参りました。現場で・・・亡くなった人の声、呻きが聞こえるような気がすると云ったのは、2004年、勤務していた日本赤十字九州国際看護大学の学生とともに訪れた旧海軍司令部壕でした。

沖縄の地上戦は、米軍が沖縄に上陸した1945年3月26日に始まり、激しい組織的戦闘は4月2日から6月23日まで続いたとされています。この間に、旧制中学の生徒を兵士に仕立てた「鉄血勤皇隊」や、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の先生や生徒からなる衛生活動を行った「ひめゆり学徒隊」ら8つの学生の従軍活動が起こっています。学徒動員・・・などという言葉もありました。後の看護大学勤務時代には、看護婦や看護学生の従軍記録も読みました。学生まで動員して闘う戦争など、絶対に起こしてはならない。新型コロナウイルス感染の広がりを含め、地震も津波も火山爆発は天然現象に原因がある自然災害・・・時には不可抗力であるのに対し、戦争はヒトの意思が原因の人為災害です。だからこそ、ヒトの意思でやめられるはず、何にしても戦争は最悪。

6月23日の沖縄の慰霊の日。看護大学教員時代、たまたま、この日に講義時間があればでしたが、良く知られている二人の軍人のあり方を話しました。

ひとりは、人格円満、教育者としてもすぐれ、すべての部下(軍隊なので、この言葉!)から慕われ、敬愛されながら、最後は、軍人に徹せられた牛島満大将の言葉(注1)は、軍人そのものでありました。戦争というものはそのような言葉が必要になるのでしょうか。もうお一方は、あえて軍人的表現をなさらなかった太田実海軍中将、学生が亡くなられた方の声が聞こえると云った海軍壕で最期を遂げられるその前に海軍次官宛てに電報を発せられた方です。この電報を読むと、今も涙が出ます。原文を読むのは難しいですが。

2020年の6月23日は、新型コロナウイルス感染症のニュースばかりですが、今年も、沖縄を思いつつ一日を過ごしました。

注1:牛島満大将の言葉

「親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに3ヶ月。すでにその任務を完遂せり。諸子の忠勇勇武は燦として後世を照らさん。いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」

注2:太田実海軍中将の次官あて電報

【原文】 沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

【現代語訳】 沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部も、また、そのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛招集に進んで応募した。残された老人・子ども・女は頼る者がなくなったため自分たちだけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまって、ただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも、風雨に曝されながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身切りこみ隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子どもは殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした、頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に・・・・(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後世、特別のご配慮を頂きたくお願いする。

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