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祖父から学んだ終末期ケア

1812年に発行されて以来、長い歴史と権威を持つ査読制ある医学誌で、時折、記事を取り上げているニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン(NEJM)2020年10月21号に、何とも壮絶な・・・とでも云いたい終末期の経過が投稿されていました。

柔らかく申せば、「おじいちゃんから終末期ケアを学ぶ Learning about End-of-Life Care from Grandpa」なので、私は、少し情緒的な物語・・・と思って読み出しました。が、途中で、ため息をつきながら、著者の名前を見直し、調べてみました。著者スコット・D・ハルペルン先生は、アメリカだけなく、世界の名門大学ペンシルバニア大学医学部の内科、疫学、医学倫理学の教授号を持たれており、救急医療の実践家、そして、アメリカの緩和ケアの重鎮でもあり、不治の病だけでなく認知症への緩和ケアの第一人者の上、教育者としても高名な方のようです。ですから、この寄稿は、安易な経験として読んではいけないと思うと同時に、かの国の終末期の実態のひとつをとても重く受けました。

このおじいちゃんは、かなり高齢になってから、著者のおばあちゃんと再婚され、その第二の妻を亡くされた後、95才で86才の女性と三度目の結婚をされ、幸せな4年間を過ごした後、99才で3人目の妻も亡くされたそうです。その後、頭脳明晰なまま、103才で、食べ物を断って亡くなるまでの経過を、義理の孫ではありますが、最後は、自宅に、その義祖父を引き取り、家族としても看取られた緩和ケアの専門家の記載なのです。

老いて再婚を繰り返し、最後は、食べ物を断っての、壮絶な・・・死を迎える・・・老衰なら当たり前の経過を、自分の意思でやり遂げる・・・医師の幇助による死についても書かれていますが、とにもかくにも、かの国は・・・と申すか、世界ではこんなこともあるのだという意味で、ぜひ、ご紹介したいと思いました。

で、私のつたない訳ではなく、友人の英語の達人に翻訳をお願いし、以下に添付します。ご意見が欲しいです。

 

祖父から学んだ終末期ケア

祖父は、私が4歳のときに、私の生物学上の祖母と結婚した。それぞれ連れ合いとは死別していた。祖父はカリフォルニアで無宗派の牧師に叙任され、85歳のときに私の結婚式で司式司祭を務めた。祖父は私にどのように妻を愛するかを教えた。祖父の93歳の誕生日に次女が生まれた。

祖母が亡くなって2年後、祖父は地元の政治集会で知り合った86歳の女性と結婚した。95歳のときだった。二人は4年間、素晴らしい生活を楽しんだが、彼女は癌を患い、在宅でのホスピス・ケアを経て亡くなった。祖父は人生で3度目の寡夫となり、「私の人生は終わり、存在のみが残った」と家族のための自伝に書いた。

そのころから祖父は衰えた。めまいに襲われて、リハビリ施設に救急搬送された。そして、突然、片方の目が見えなくなり、第二次世界大戦に従軍したときに耳が不自由になっていたので、意思の疎通がいっそう難しくなった。私たちと同居するよう勧めたが、祖父は断固として聞き入れなかった。私たちの家族のなかで中心的な役割を担うべきだ、と説得したにも関わらず、「お前は自分の家族のことに集中するべきで、こんな老人にかまっていてはいけない」と祖父は繰り返した。

そして、祖父はニュージャージー州北部の介護施設に移った。そこは、子どもたちや、最近亡くした連れ合いの娘、そして、私の家族が頻繁に訪ねることができる場所だった。だれもそこに行けないときにはeメールで連絡を取り合い、祖父は、生涯ずっとしていたように貪欲に読書を楽しんだ。

関節炎が悪化するとほんの短いメールを書くことも煩わしくなった。「指が脳に追いつけないのはイライラする」と祖父は嘆いた。やがて、新型コロナの感染が始まり、訪問が制限されるようになり、祖父は耳が聞こえないので電話は役に立たず、完全に外界から遮断された。北東部での感染が少し収まったので、祖父の息子と私は訪問許可を得て、別々の日に施設を訪問した。103歳の誕生日が近づいていたにも関わらず、頭脳は明晰で、私たちに、それぞれ同じことを懇願した祖父は延命処置をしたくない、とずっと言っていたが、いまは死期を早める妥当な方法を探していた。

ニュージャージー州は、前年、「医者が幇助する死」を合法化していたことを、私は知っていたが、合法性と有効性、妥当性の3つは別の問題だということも理解していた。私は、長い間、医師の幇助する死について相反する感情をもっており、私の考えは、2018年の全米医学アカデミーで、一緒にワークショップを企画した同僚たちによって一層強化されていた。これらの専門家たちのうちの何人かに連絡し、祖父がえらぶべき選択肢について意見を求めた。祖父は高齢で弱っており、そして何よりも、孤立や無意味さによって死にそうであるとしても、医師の幇助する死を選ぶ条件を満たしているのだろうか。

ニュージャージー州が、医師が幇助する死の適格性を与える規定を作成するよりも前に、メディケア・メディエイド・サービス・センター(CMS)は、ホスピスに入ることを認める条件として、そして、医師が幇助する死を合法化する状態として、「老衰」の規定を認めていた。しかし、CMSは、最近、ホスピスに入ることを認める規定から、医師が幇助する死に関する規定を削除していた。いずれにしても、幇助する死を実行するため、かなりの経験をもつ医師をニュージャージー州で見つけることは、私にはできなかった。

私は祖父に別の選択肢を示した。それは飲食を自主的にやめるという方法だ。祖父はこの可能性を考えたことがなかった(家族や臨床医が終末医療の不公平の責任の一端を担っているということを、私に改めて思い起こさせた)。祖父はこの選択肢に興味をもち、その後の訪問の時に、それをやってみたいと強く思うようになった。私はまず、同居することを求めた。私は、自分の医療システムのホスピス・プログラムに祖父を参加させることによって、ケアの質を確保したいと考えた。また、祖父は孤立状態が終われば考えを変えるかもしれないので、祖父の決断が確かなものかどうかを知りたいという思いも私にはあった。

私たちと同居するようになって1カ月ほどは、祖父は元気で、歩行もしっかりし、食欲も旺盛だった。妻と娘と私と一緒に夕食をとり、食前酒には、80年間も楽しんできて、施設では飲めなかったウオッカ・マーティーニを私が用意した。祖父は海軍や障害の仕事、家族の歴史の話をし、「こんなによくしてくれたら、もう少し長生きするかもしれない」としばしば皮肉めいた冗談を言った。

しかし、やがて祖父は死を早めるという目的に戻った。ある夜、翌日の朝から飲食をやめる準備ができたと言ったが、朝になると、いつものコーヒーとベーグルが欲しいと言った。怖いのだ、と告白した。何が怖いのかと尋ねると「ローラースケートをしてみようとしているみたいだ。始めるのが怖い。でも、やってみれば、多分、うまくできるのだろう」と言った。

一週間後に勇気を蓄えて、飲食をやめたいと言った。みんなと一緒に夕食を取ってから、ゆっくり考えたら、と私は言った。祖父は同意し、皿によそったものを平らげ、食後に娘が用意したアイスクリーム・サンディを食べ、そのときのために開けた赤ワインを飲んだ。祖父は「最後のバンザイだ」と微笑んで、年老いて弱々しい人とは思えないような元気さでガッツポーズをした。翌朝、祖父の部屋に行くと、すでに身支度を整えていた。私がおはようという前に、「始める準備はできている」と宣言し、「でも、ブラック・コーヒーをカップに半分だけならいいだろう」と続けた。私は医者の儀式として、それは彼の選択であって、延命をすると同時に喜びをもたらすだろう、と伝えた。祖父はうなずいていた。私はコーヒーを注ぎ、祖父はそれを飲んだ。毎朝、6オンスのブラック・コーヒーだけを口にした祖父は、三日目に「告白することがあるんだ。夕方に顔を洗ったとき水を一口飲んだ」と言った。祖父の罪の意識と失望によって、医師が幇助する死についての私の考えがすぐに変わった。精神的な病気や生存に対する差し迫った脅威のために死にたいとつねに思っている人にとって、飲食をやめるという唯一の選択肢は、あまりにも難解だが興味をそそるのだ。米国のホスピスの専門家は、それを実践しようとした人のうち「成功した」のは20%以下であり、途中でやめた人の理由は恐ろしい渇きだった、と私に忠告した。

たとえ、このストイックな元海軍兵士にしても、その後も、何度か水を飲みたいといった。死を早めるという選択に迷いがあるのか、ただ渇きを癒したいだけなのか、と私が尋ねると、祖父は「早く終わらせたいだけだ。スコット、しなければならないことをしてくれ」と言った。つまり、祖父の自由意志に基づく行為の成功の責任を、それは飲食をやめる試みをしている患者の介護者の責任であるが、私が負っているということだった。祖父の口を拭いているとき、もはやく苦痛を軽減することはできなかった。そして、ホスピス・チームと相談した後、私は、祖父のさまざまな不快感に対処し、喉の渇きを和らげるためにモルヒネとロラザゼパムを使った。祖父はそれまでよりも疲れやすくなり、やがて寝たきりになって、意思の疎通ができなくなり、一生続いたように感じられた12日間の後、祖父は安らかに息を引き取った。

私はこの経験を通して、いかなる研究や指導、あるいは緩和ケアの提供からも明らかにされることのなかった多くのことを学んだ。孤立の威力とそれを相殺する家族の力、実存の苦しみとそれを軽減するための選択肢の足りなさ、不公正の作用、飲食をやめるということは、それがどういうことなのかの知識を持つ家族のメンバーと熱心なホスピス・ケアなしにはできないことである。医師が幇助する死には多くの問題があるにもかかわらず、死に直面してはいないが生きることを終えた人にとっては、それが可能な限り、もっとも総合的な緩和を提供できるであろうにもかかわらず。」