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コフィ・ニャルコ(ガーナ)

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1971年7月17日に、ガーナ中部のニャコマシで生まれた。6歳の時に突然母が亡くなったんだ。ものすごいショックだったけど、葬式まで、母が死んだんだということは、理解できていなかった。このころの気持ちは、言葉では説明ができないよ。父はあまり目立たない人で、この1年後にアルコールの問題で亡くなった。こうやって父もいなくなってしまうと、誰も面倒を見てくれる人がいなくなってしまったんだ。

母は4人の子どもを後に残した。僕の他に娘が3人。葬式の直後に、母の友人が3人の姉と妹を連れて行った。クマシにある家で暮らすんだと言って。家を出ることができるくらいの年齢になるまで、みんなこの家で暮らさせてもらっていたよ。でも、僕が姉や妹に会うことができたのは、それから17年もたってからのことだった。

僕自身は伯母の家に預けられた。伯母には子どもが5人いてね、僕はまったく招かれざる客だったんだ。何をするにも自分の子どもがまず最初。自分の子どもたちがちゃんと食べたのを見届けて、もしも食べるものがまだ残っていたら、僕にも余り物をくれた。なんにも食べられないで寝なくちゃいけないことも、よくあった。まったく相手にもされず、3日も水浴びをしないこともあった。よく殴られたしね。本当にひどい日々だったよ。伯母の子どもの一人が仲良くしようとしてくれたこともあったけど、それを見た伯母はカンカンになってしかり飛ばした。他の子どもはバカにしたりいじめたりしてきた。まったく愛のない日々で、なんのために生きていくのか、生きていく意味さえも分からなかった。

何年かしてハンセン病にかかったんだ。その時はまだハンセン病だとは知らなかったけど、赤いパッチが体中にあるのに気がついた。村で火を踏みつけて大やけどをおっても気が付かなかった。村での生活には、いろんな事故がつきものだけど、感覚がなかったので気がつかないことも多かった。このせいで、僕の手や足には障がいができてしまった。

ある日、旅回りの商人がやってきて、僕にハンセン病の症状があることに気がついたんだ。僕と一緒に伯母のところに行ってくれて、病院に連れて行くようにと言ってくれた。そんな金はないし、あったとてもそんな無駄金は使わないよ、と伯母はすごい剣幕で言った。散々悪口を言いながらね。次の週、またこの人が来てくれたんだ。食べ物を持ってこっそりと。そしてハンセン病の病院に連れて行ってくれたんだ。村の人は誰も知らないままね。10歳の時のことだったよ。

病院の最初の印象はとにかくショックだった。手足の切断をしている人なんか見たこともなかったのに、そういう人がたくさんいてね。驚いたし、傷ついたし、とっても不安になった。僕の人生はもうこれでおしまいだって思ったね。生きていく希望も意志も失った。

でもこの病院にいたのはわずか1週間だった。フランシスコ会宣教師のブラザー・ビンセントがこの病院に来てね、僕をハンセン病の子どもたちのケアをしているカトリックのセンターのアホトクロムに連れてきてくれたんだ。ここに来てやっと僕は、家族の一員だと感じることができた。なんとかこれでやっていこうと思えるようになったんだ。ブラザー・ビンセントは僕の村まで行ってくれたよ。伯母に僕の話をしてくれて、今どこにいるか話してくれた。でも伯母は一度もここを訪れることはなかったし、僕を呼び戻そうともしなかったね。次の伯母に会ったのは、自分で生きていけるようになって、会いに行った時のことだよ。

17歳の時に引っ越した。ハンセン病は治ったけれど、故郷に戻らなかった人たちが住んでいるところで、当時はアンカフル・キャンプって言われてたよ。ごはんは共同食堂で食べられたけど、一人で生きていかなくてはならなかったんだ。

いろいろと大変なことはあったけれども、このキャンプから中等教育を受けることができた。でも、ハンセン病にかかって障がいがあるからって、誰も他の生徒が一緒に遊んでくれなかったのはつらかったね。生徒だけじゃなくて、ひどいことをする先生もいたなあ。僕の試験は採点をしたくないって拒否したりね。つらいこともいっぱいあったけど、なんとかやり過ごすことができたのは、2人のかけがえのない友だちがいたからさ。ジェイムズとジョセフの2人だけが普通に接してくれたおかげで、僕は生きていくことができた。こんな経験をしたから、僕は障がいのある人のために生きていこうと決めたんだ。人間ってね、人から拒絶され続けると、生きる価値なんかないように思ってしまうものなんだよ。

22歳になった1993年、高校の試験に合格したけど、進学はあきらめた。学校に通うには寄宿しなくちゃいけなかったからね。通学するだけでも大変なのに、寄宿なんてことになると、他の生徒が受け入れてくれないことは目に見ている。

それで、住んでいるアホトクロムで特別な必要のある子どもの面倒を見ることにしたんだ。そうしたらシスター・パットが、同じように特別な教育の必要がある子どもたちのための教室を作ってくれた。そこで教えるようになったのが24歳の時。1995年のことだね。

故郷を離れ、アホトクロムにハンセン病の治療を受けにきていたルーシーという女性に出会ったんだ。僕の置かれている状況を理解してくれたルーシーは、みんなからの批判や差別をはねのけて、一生を共にしてくれると言ってくれた。結婚したのは1994年4月のこと。現在はパトリックとニャルコという2人の息子、そしてメアリーという娘がいる。今でもアホトクロムで教師をしているよ。そして家族と一緒に暮らしている。

2001年に、ダグ神父がアホトクロムにいらっしゃった時、ロンドンの教区学校にしばらく来ないかと誘ってくださったんだ。最初はどうやってそんなお金を用意するのかと思ったくらいで、まるで現実味なんかなかった。でもシスター・パットが応募書類なんかを用意し始めたのを見て、初めてこれは夢じゃない、現実なんだって分かってきた。

イギリスに行くためにパスポートを申請しに行ったらね、なんとそこに、僕が学校に通っていたころに、試験の採点を拒否した先生がいたんだ。教師は辞めて、今は役所で働いてるんだとか。申請用紙を見ると、「おい、何やってんだ」と鼻先で笑って聞いてきた。イギリスに行くためにパスポートを申請しに来たと答えたよ。びっくりしてたねえ。自分も長いこと外国に行きたいと思っていたのに、昔あんなに軽蔑したちっぽけな存在だった僕が、イギリスに行くだなんて、到底信じられないようでね。

これも、僕の人生がどれだけ変わったかが分かるひとつの例だと思う。虐げられた子ども時代から、よいほうへよいほうへと変わってきているんだ。家族も、家も、仕事もあって。イギリスにまで行くことができた。ガーナの国のシンボルはギ・ニャム。神のみ、という意味だ。僕の人生を見守ってきてくれたのは、まさに神のみだったと思っている。

コフィ・ニャルコ:ガーナ中部ニャコマシに生まれ。教師として働くかたわら、IDEAガーナの代表として精力的な活動を続けている。

出典:IDEAホームページ
引用に際して本人の許可を得ています。