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ヒラリオン・ギア(フィリピン)

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1940年10月19日ルソン島バタンガス地方出身。兄7人と姉1人の9人兄弟の末っ子として生まれた。3歳の時に父母が死亡し、兄弟と共に祖母に育てられた。父母はハンセン病にはかかっていないが、兄の1人がハンセン病にかかり、14歳の時にクリオンに強制収容された。他の7人は誰もハンセン病にかかっていないので、自分がなぜハンセン病にかかったのか、その原因だったのかは、いまだに分からない。

小さい時から顔にパッチがあったため、ハンセン病を疑われていた。私の家族は、家族の中にハンセン病がいるとは知られたくなかったので、私は家から外に出られず、毎日を隠れて暮らしていた。クリオン島に行っていた兄が、そのことを知り、少なくともクリオンでは、外にも出られず隠れていなくてはならないような生活はしなくてもいいからと、クリオンに来ることを薦めた。

祖母は末っ子の私が家族から離れて、クリオンのような遠いところで暮らすことに反対した。出発の日には、出掛けようとしていた私にしがみつき、行くなと言った。しかし兄たちは、バタンガスでは隠れて生きていかなくてはならず、将来は何もない。クリオンでなら、勉強もできるし、友だちと遊ぶこともできる。クリオンでのびのびと暮らすほうが、本人にとっては幸せなのだと説得した。

クリオンに着いたのはようやく10歳になったころだった。すでにクリオンでの生活に慣れていた兄が面倒を見てくれたため、クリオンでの生活は何も問題がなかった。故郷では家に隠れているだけだったが、クリオンでは本当に普通の子どもの生活だった。クリオンに移ってから、すぐに小学校に入学した。学校がない時には友だちと、かくれんぼをしたり、走り回ったりして遊んだ。そのころ、クリオンは患者地域と職員地域に分かれていたが、よく友だちと一緒に、職員地域に忍び込んだりした。自分たちが許可されていない職員地域には何があるのか、という興味があったし、スリルもあった。警官が見張っているので、忍び込むのは難しいが、そこで決闘ごっこをしたりした。

小学校は1957年に卒業した。その後はイエズス会の中高学校に入学し、1961年にここを卒業。まだ勉強を続けたかったので、タラに移った。クリオンには中高学校までしかなかったが、タラでは勉強を続けることができた。ここで科学と教育の学位を取得した。1965年に大学を卒業するとすぐに、教員としてクリオンに戻ってこないかと誘われたため、クリオンに戻った。以来、現在にいたるまで、1995年から1998年の3年間を除いては、ずっとクリオンの学校で教えている。60歳で定年を迎えたのだが、学校から請われて、今でも教えている。

クリオンは1906年に療養所が作られてから、保健省直轄だった。運営費、その他の経費はすべて保健省から支出されていたが、1950年代半ばには、解放令が出され、療養所での治療から、外来治療へと方向が転換していった。これは患者自身の、家族の元に戻りたいという強い要望と、また7000以上あるといわれる島々をまわって、ハンセン病患者を探し、クリオンや後年はセブなどの療養所に収容するよりは、それぞれの自宅近くの病院で治療を受けるほうが、予算も少なくすむためであった。

当時のクリオンは、保健省からすべてを支給されており、生活は悪くなかった。療養所の維持管理費、運営費、医薬品、機材等から、患者の生活費、食費、衣服費なども予算に組み込まれていた。また、他のセブやタラなどの療養所では、療養所内では何もすることがなかったのに比べ、クリオンでは島内の土地を利用して、農業や漁業など、自分たちの力でなんらかの仕事をして、生活費を稼ぐこともできたため、他療養所の病気が治癒した人たちが多く移り住んだ。1960年代には、クリオン島内での農業推進のため、特にセブ療養所を中心として多数やってきた。そのころにはすでに、外来療法が取られていたため、患者でクリオン島に移住することはできなくなっていた。フィリピンの療養所では、刑罰としてクリオンへの島流しがあったが、これを利用して、わざと何か罰則を受けるようなことをして、クリオンに流されるように仕組んだ人もたくさんいた。

クリオンというと、「手紙書き」産業が有名で、今でも手紙を書いているのかなどとよく聞かれ、非常にいら立たしい思いをする。私はあれは物ごいの一種で、非常に人間の品位を落とす仕事だと思っている。いつごろ始まったかは、はっきりとは分からない。しかし恐らく始まりは、クリオンに住む人が、孤独を癒やすための手段として、文通相手が欲しくて始まったのだと思う。そのころのクリオンは、まさに外の社会からは隔絶されており、電話も、テレビもラジオも何もなく、外からの情報は、故郷に残した家族が連絡してくれる人は、その情報だけ。家族が連絡もくれない人もたくさんいた。外の世界に少しでもつながっていたいという思いで、始められたのではないかと思う。しかしそのうち、海外から手紙が届くだけではなく、少しでも生活の足しにしてくださいとお金が入ってくるようになってから、変わってきたようだ。教会のシスターたちが、本国に手紙を送り、クリオンの患者のために支援を呼びかけるのを目のあたりにしていたことも、理由のひとつだろう。シスターが支援を求められるのであれば、なぜ自分たちにもできないのだ、というわけだ。

この「手紙書き」は、何もクリオンだけではなく、クリオンにいろんな人からお金が送られてくるようになったといううわさが広まると、他の療養所にも飛び火した。お金が送られるようになってくると、ますます多くの人たちが手紙を書くようになった。最初はほとんど、子どもの教育のための支援を呼びかけていた。しかししばらくすると、患者や回復者ではなく、関係ない人たちが書くようになってきた。書かれている内容はエスカレートしていき、お金欲しさに現実よりも悲惨な状況を訴えるようになっていった。

フィリピンの郵政省は、この小さなクリオン島の郵便局の売り上げが、他の郵便局と比較して飛躍的に高く、そして海外からの手紙の数が非常に多いことに驚いていたという記録が残っている。クリスマスシーズンには、切手はあっという間に売り切れてしまった。クリオンの郵便局は、この切手不足打開のため、切手ではなくスタンプを使い始めた、最初のグループの郵便局である。

手紙産業は見返りのいい事業であり、中には投資家として、代筆屋を雇っていた人たちもいたくらいだった。しかしそれでも、手紙を書き、見知らぬ人の善意による寄付に頼るのは、物ごいと何も変わらない。これはなくしていかなくてはならないと思った。

1960年代に入り、保健省の対クリオン支援が縮小し始めた。60年代後半にも、一度、クリオンを保健省直轄ではなく、普通の地方自治体に組み入れることが、クリオン側から提案されたこともあったが、1972年の戒厳令布告と共に、その盛り上がりは断たれた。

保健省からクリオンへの支援は減り続けたが、問題はそれだけではなかった。保健省は医療問題の支援は行ったが、それ以外の面での支援には熱心ではなかった。患者数は減ってきているのに対し、患者の家族はどんどんと増えている。人口増加に伴うインフラ整備や、生活環境を向上させるための予算はどこからも出されなかった。1990年代に入り、クリオンに電気を通し、教育設備を充実し、道路を整備し、これまで通行できなかった場所に橋をかけること、などを目指し、保健省からのみの支援から、一般社会としてクリオンが発展する機会を求めて、地方自治体参入を目指す動きが高まった。

私はこのために、共に働いてくれる人を探した。幸い国会議員や地方議員の中に、これに賛同してくれる人が見つかった。そのうちの1人は、農林大臣の友人であった国会議員で、この人の尽力は大きかった。地方レベル、国レベルでの働きかけの結果、クリオンは1992年に地方自治体として認められるに至った。実際に地方自治体が設立され、機能し始めたのは1995年のことであったが、それからは、保健省だけに限らず、その他の省庁からの支援も受けられるようになった。

しかし省庁からの支援だけが、私の目的だったのではない。何よりも地方自治体へと移行することによって、この島に課せられたスティグマを取り除きたかったのだ。保健省直轄のハンセン病隔離島から、悲しい歴史は持っているが、普通の人間が普通に暮らす島としてのクリオンへと生まれ変わってもらいたかった。

確かにクリオンには産業がない。しかしだからといって、いつまでも保健省からの支援や、海外の篤志家などの慈善に頼って、永遠に依存したまま生きていかなくてはならないのだろうか。私たち回復者だけではなく、その子どもや、そのまた子どもたちの将来はどうなのか。どこかで私たちは、自分たちのために立ち上がらなければならない。

私はスティグマをなくすために、そして自分の人生、コミュニティーの将来を変えていくためには、教育が必要だと信じている。自分やコミュニティーのために立ち上がる人たちを育てるためには、何よりも教育だと思ったので、これまで教育に携わってきた。子どもたちが自分の未来を考えるためには教育が必要だが、それと同じように、クリオンが将来発展していくためには、クリオン自体が組織されていかなくてはならない。クリオン初代市長選挙に立候補したのは、自分や家族、コミュニティーが発展していくために、自分には何ができるかを考えた結果だった。選挙期間中は、クリオンの島や、クリオン自治体に組み込まれている周囲の島をくまなく歩いた。

1995年から3年間、クリオン初代市長として、できる限りのことはしたという自負がある。クリオンにはまだまだ問題がたくさんある。しかし、着実な一歩を踏み出している。

クリオンについて話をする時には、いつもお願いしていることがある。クリオンを、ハンセン病の隔離島だったという悲劇的な歴史だけの島として、表現しないでほしい。クリオンには特異な歴史がある。この歴史は残されなければならない。しかし、これは私たちが歩んできた過去であり、クリオン全体の一部でしかない。クリオンは美しい島だ。そしてこれからさまざまな形で発展していくことと思われる。だから、決してクリオンを、単にハンセン病の悲劇の島だけとして見てもらいたくない。なぜなら、クリオンはもう立派な一般社会の一部なのだから。

2005年の本人とのインタビューより。掲載に際して本人の許可を得ています。