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A.プラカサム(インド)

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名前はプラカサム。インドのヴィルプラム・タルクのランパカムで生まれた。母は私が5歳の時に亡くなり、その直後に父は腸チフスにかかり、同時にハンセン病にもかかったようだ。

自分も子どものころにハンセン病の症状が出た。体中にパッチが出たが、父も私も読み書きができなかったため、何が問題なのか分からなかった。ハンセン病だと気がついたのは村の人で、治療を受けるようにと村を追い出されたよ。いくつものハンセン病特別病院をまわり、治ったといわれて故郷に戻ることができたのは、それから10年以上もたってからのことだった。

故郷に戻っても父と私の面倒を見てくれる家族はおらず、食うに困って、持っていた土地を分割して売り、再び故郷を離れた。落ち着いたところがチングルプットだった。最初はアルミニウムの容器なんかを売っていたが、売り上げは少なくて、家賃や電気代どころか、食べ物を買う金さえなかった。気がつくと借金まで抱えていたよ。

その当時、インド全土を劇的な米不足が襲っていた。そこで、私たちはチェンナイからムンバイへ米を運び込み、闇米を売ることにしたんだ。切符は買わずに、電車にグループで乗り込んで米を運ぶんだが、捕まることはなかった。ハンセン病にかかっていたからな。父はそのころに亡くなった。ラクシュミという女性と結婚し、ラジェスワリという娘が生まれた。娘が5歳になった時、またハンセン病を発症し、クンバコナムの病院に入院することにした。ラジェスワリが11歳の時に、妻は病気のために亡くなった。娘は友人の家族に託した。きちんと育ててくれるように願いながら。

デリーで物ごいをしていたが、チェンナイに戻り、近くの工場から出る鉄のスクラップを売る商売を始めたよ。闇米の販売も続けながらね。それから、ハンセン病の定着村の多くの住人がやっていたように、アヘンも売っていた。そりゃ当然、違法だよ。でもハンセン病にかかったことのある私たちを捕まえるような警官はなかったからね。ところがある日、警察の高官がやってきて、私たちが売っている麻薬によって、いかに若い世代の人生が損なわれ、社会に大きな問題を起こしているか説明してくれたんだ。それを聞いた私は、今後は一切アヘンを売ることはしないと誓ったよ。そして村の全員の家にあったアヘンを運び出し、その場で焼き捨てた。これ以降、一切不法行為はしていない。

私は過去20年にわたって、タミルナドゥ州のハンセン病患者リハビリ同盟の会長をしている。私たちの目標は、ハンセン病定着村に住む1人1人の住人の生きる尊厳を回復することなんだ。すでに多くの人が、尊敬に値するビジネスを始めてるさ。それから、私たちの子どもたちが教育を受けられるように、さまざまな団体と協力してるよ。そうそう、私も再婚して幸せに暮らしている。

最近になり、タミルナドゥ州政府から、ハンセン病回復者に向けた社会福祉サービスに対して表彰してもらったよ。息子は結婚し、今では孫もいる。私の息子が私たち夫婦を含め、大家族を養ってくれている。でも今でも、ハンセン病回復者の生活環境を向上するために働いている。これは生きている限りは続けたいと思っているよ。

出典:Illuminating Ourselves (IDEA Center for the Voices of Humanity, 2008)。2004年のDr P.K. Gopalによるインタビューより。
引用に際して本人の許可を得ています。