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「アイデア・IDEA」そして、その先へ

§始まりは1993年10月フロリダ州オーランド 国際ハンセン病学会に当事者が参加§

1993年10月アメリカ南部フロリダ州のオーランド市で開かれた第13回国際ハンセン病学会は一つの歴史を刻んだ。1897年の第一回ベルリン会議からほぼ100年、医師、研究者の学会に「当事者」たちのセッションが出来た。「患者たちが学会に?」に近い声が学会主流にあったことは言うまでもない。当事者たちの参加を想定して作られた特別セッションは「ハンセン病サービスの提供者と消費者=コンシューマー」という奇妙なタイトルだった。つまり「提供側」と「受け手」という図式の中で、「受け手」の当事者の発言の場を確保したものだった。

§個性豊かな活動家たちが顔を合わせた§

このセッションに参加した「消費者」側は多彩だった。ハワイ モロカイのバーナード・プニカイア、ブラジルのバクラウ、韓国の鄭相権、そしてインドのゴパール。それぞれ自分の地元でハンセン病回復者の生きる道を探って努力を続けて来た人たちだった。日本からただ一人参加した奄美の佐々木氏は、会場で会ったプニカイアに「貴方は7才の時に母親のもとから引き離されてカラウパパに送られましたね、、、、」と語り掛け、佐々木氏に同行した私はただただ驚きを隠せなかった。インターネットもない時代に、日本の南の島でモロカイに生きる同病者の動きを把握している。その鋭さに圧倒された。

§アイディア(国際組織)設立へ§

フロリダでの学会の翌年、ブラジルの当事者組織MORHAN(モーハン=ハンセン病者の社会統合運動)の努力で、リオデジャネイロ州ペトロポリス市でアイデア設立集会が開かれた。アイデアの第一期は、世界の各地で個々に声をあげていた当事者リーダーたちが国際的な舞台を得て連帯を築くことが中心となった。アイデア創設とその後の牽引車の役割を担ったアメリカの活動家、アンウェイ・ローさんの「本来(このような国際的な発言の場は)もっと早くできて当然だった」という言葉を裏書きするかのように、ハンセン病回復者自身による国際ネットワークの設立は世界各地で熱く受け止められ、急速にその波紋が広がって行った。

§アイディアのビジョンが日本に伝えられる§

それから2年後の1996年、アイデアが中国でも設立されることになり、設立集会に参加するインドのゴパール氏とアメリカのアンウェイ・ローさんが東京に立ち寄った。日本の回復者とアイデアの出会いであった。ちょうど「ハンセン病廃止の歴史」の校了間際であった故大谷藤郎氏は、アイデアの中心理念である共生・尊厳・経済向上に触れて、校了間際であった著作に書き足した。「人間の権利を侵害されて苦しんだ人間こそが『共に生きる社会』を真剣に考え先頭に立つことができる」「国会がらい予防法廃止を議決する同じ時期に、アイデアのゴパール会長とアンウェイ・ラウ夫人が日本を訪問してアイデア精神を説かれたのは『天からの使者』のように私には思える。」

§1998年 初の国際交流集会§

1998年6月には、全療協・アイデア・藤楓協会の共催で「人間の尊厳回復と共生をめざして-ハンセン病回復者の国際交流集会」が開催され、海外7か国から9名の回復者が来日した。

§アイデア ジャパンの設立§

こうして日本に撒かれたアイデアの種は2004年、森元美代治さんを中心としたアイデア・ジャパンに結実した。当事者が世界各地の当事者と連帯して共通の問題に発言し、相互に支援する運動は、全国の療養所の入所者の方々の支援も受けた。当初は個人的に参加する方も何人もあり、全療協も賛助会員として支援していただいた。

§アイデアの第二期は、、§

それぞれのリーダーたちが自らの足元の問題に注目し、組織を強化し活動を拡げていく過程であった。インドでは全国的なハンセン病コロニーの調査を行い、コロニーをベースにした州レベルの組織化に努力が傾けられ、その後の全国組織、「ナショナル・フォーラム」に発展していく。エチオピアでも全国の支部をつなぐ組織「エナパル」の強化が進んだ。フィリピンでは、長い隔離の歴史のなかで、全国8か所の療養所を中心に生まれていた多数の草の根グループの調査が始まっていた。中国のハンダ(漢達康福協会)は全国600余りのハンセン村のうち、南部を中心に回復者村民のリハビリテーションに取り組み始めていた。ブラジルではモーハンの主導で、厳しい隔離の歴史を持つ30余か所の療養所入所者の生活向を課題として、隔離政策の被害を問う国家賠償の要求運動が展開された。

§記憶を継ぐもの、、、、新しい担い手の出現§

そして今、厳しい隔離と差別の人生を生きた第一世代は高齢となり、去りつつある。ハンセン病は治る病気となり、第一世代が体験したような逃れようのない烙印を残すことは比較的少なくなり、各地でハンセン病の足跡が消され始めている。その一方で、隔離と差別の中を不屈の精神で生き抜いた第一世代の人々の人間像に、現代社会が見失いつつある原石のような力を発見し、人としての強さ優しさのメッセージを受け継ぎ、その記憶を後世に引き継ごうという活動が生まれている。それは同時に、外の社会にハンセン病を生きた人々の姿がとどくことであり、見えない「壁」を取り払う動きとなり、アイデアの今一つのコンセプトであるインテグレーション、つまり社会への統合に至る道に他ならない。
社会の排除と闘って自分たちを育ててくれたことに感謝と誇りをもち、第一世代である父母の世代に発足した組織を継承する第二、第三世代がいる。第一世代の当事者と深く心を通わせ、第一世代に「自分たちの跡を引き継いで、ハンセン病問題を解決して欲しい」と委託された個人・団体もある。苦しく辛い人生を生きた第一世代のイメージがを記憶している第2第3世代がいる場合は、当事者組織の理念や方針は来通り維持されると予想される。一方、第2世代の居ない環境ではどうだろうか。そこには、高齢の当時者と20代前半の若者といった新しい支援環境が生まれている。若者たちには、ハンセン病を生きた人々との交わりを経て、よりはるかな人間の地平線が見えて来るのかもしれない。ハンセン病問題は病気を超えた様々なテーマを提供して、我々一人一人に迫り、育ててくれる。